人形佐七捕物帳 巻九 [#地から2字上げ]横溝正史   目次  春宵とんとんとん  三河万歳  蝶合戦  女難剣難  まぼろし小町  蛇性の淫     春宵とんとんとん  離れの置きごたつ   ——まあ、きれいなお月さまだこと 「乳母や、雪はまだ降っているかえ」 「はい、お染さま、ますます、はげしゅうなるばかりでございます」 「もう、よっぽどつもったろうねえ」 「さあ、五寸はつもったでございましょう」 「まあ、憎らしい雪だこと。せっかく、丹様が忍んできてくださろうという宵《よい》に、あいにくのこの大雪。ほんとうにおてんとさまも気がきかない。人の恋路のじゃまをする気かえ」 「もし、お染さま」 「…………」 「それでは、あなたはどうしても、今宵《こよい》、あの丹三郎《たんざぶろう》めと、忍びあうつもりでございますか」 「ああ、そのつもりだよ。そのつもりだとも。乳母や、意見ならもうさんざん聞きあいた。このうえ、くどう聞きとうもない」 「いいえ、申します。申しませえでか。あの丹三《たんざ》めのどこがようて、親のゆるさぬ不義いたずら、お染さま、あなたは気でも狂ったのでございませぬか」 「そうかもしれぬ。気が狂ったのかもしれぬ。乳母や、恋は盲目というではないか」 「ええ、もう、あんなやつに恋だのと、耳にするさえけがらわしい。お染さま、よう考えてくださいませ。あなたさまは叶屋《かのうや》という、れっきとした大店《おおだな》のひとり娘。ゆくゆくはお婿様をとって、お店をつぐべき、ご身分ではございませぬか。それにひきかえ丹三めは、安御家人のならずもの。としだって、あなたさまとは、二十もちがうじゃありませんか。お染さま、そこのところを考えて……」 「乳母や、恋に上下のへだてはない」 「それはそうでございます。だんなさまもそのことは、日ごろから、おっしゃってでございます。たとい身分ちがいでも、器量さえあれば婿にすると。ですから、わたしもいちがいに、野暮なことを申すのではございませぬ。しかし、あいてが丹三とあっては、これゃどうしても、おいさめしなければなりませぬ。あいつは、まむしと異名のあるくらい、札つきのならずもの。ゆすりかたりはいうまでもなく、ほかにどのような凶状を持っているやしれぬ男。お染さま、こればっかりは、思いとどまってくださいまし。もし、お染さま」 「くどい!」  お染はきっとまぶたを染めて、 「さっきから聞いていれば、よう恋人の悪口をいうておくれだったね。もう乳母とはおもわぬ。主人ともおもうておくれでない。あたしが慕うて、あたしが身をまかせようというのに、他人の斟酌《しんしゃく》はいらぬこと。ああ、まだ五つ半(九時)にはならぬかえ」  お染はことしまだ十七、日ごろはしごくおとなしい娘だが、いったんこうと思いこむと、なかなかあとへはひかぬ性分。  恋にくるうたかそのお染が、気もそぞろのありさまに、乳母のおもとは、たもとをかんでむせび泣いた。  そこは油町でも名だいの大店、叶屋のはなれ座敷なのである。  こよいは親戚《しんせき》にお通夜があって、あるじ重右衛門《じゅうえもん》は、ひと晩、うちをあけることになっているが、その留守ちゅうに娘お染が、乳母にきり出したのは、おもいもよらぬ難題だった。  こよい五つ半、うらから男が忍んでくるから、なんにもいわずに、手引きをしてくれというのである。  びっくりしたおもとが、あいてをたずねると、丹野丹三郎というので、おもとはいよいよびっくり、肝をつぶした。  丹野丹三郎というのは、ひょうばんの悪御家人で、叶屋へも二、三度、ゆすりにきたことがある。としもお染と二十ばかりちがって三十五、六、そんな男とどうしてと、尋ねてみても理由はない。  ただ、ほれたから身をまかせる気になった。じゃまだてすれば生きてはおらぬと、懐剣まで用意して、おもいつめたお染のようすに、乳母はただ泣くばかりである。  そのうちに時刻は容赦なくうつって、約束の刻限ともなれば、お染はいそいそこたつの火をかき立て、まくらもふたつ用意して、なまめかしい長襦袢《ながじゅばん》いちまいで、男を待ちこがれるようすに、おもとはいよいよあきれて泣いた。  やがて約束の五つ半。 「もう、丹様がおみえになる時刻だが……」  と、お染のことばもおわらぬうちに、裏木戸にあたって、とん、とん、とんと、かるく三つ戸をうつ音。  それがあいびきのあいずなのである。 「それ、乳母や、丹様がおみえになった。はやくこちらへご案内して。無礼なまねをすると、承知しないから、おぼえておいで」  と、せき立てられた乳母のおもとが、涙をかくして庭へおり、裏木戸をあけると、降りしきる雪のほのあかりのそのなかに、長合羽に、宗十郎|頭巾《ずきん》でおもてをつつんだ男が、傘《かさ》をつぼめて立っている。 「丹様かえ」  乳母のおもとがそばへよると、男はひどく酔うていて、ぷんと酒のにおいがする。 「は、はい……」  と、男はふらふらしながら答えた。 「お染さまがさきほどよりお待ちかね。さ、ちっともはやく……」  と、悲しさとくやしさをこらえて、おもとが手をとると、男はなにかいったようだが、頭巾のためにききとれなかった。  やがて、おもとが男の手をひいて、はなれ座敷へかえってくると、お染がとび立つような顔色で、 「丹様、さぞ寒かったことでございましょう」  と、ふらふらしている男の手をとり、寝床のほうへみちびいていくと、 「まあ、いやな丹様、こんなに酔うて……」  と、いいながら、ふっと行灯《あんどん》をふき消した。  それをみると、乳母のおもとは、あまりのあさましさに、じぶんの部屋へかえってくるなり、わっとその場に泣きふした。  とはいうものの、合点のいかぬは、お染さまのきょうのふるまい、あれほど聰明《そうめい》なお染さまが、丹三のような男に思いをかけるはずがない。  これにはなにか、ふかい子細があるのではないか……と、おもとはむっくり頭をもたげて、ひと間へだてたむこうの座敷のけはいに耳をかたむけたが、しばらくするうちに、おもとはまたあらためて、絶望のどん底にたたきこまれた。  はじめは男も遠慮しているのか、ごくかすかなつぶやきと、ものやわらかなけはいしかきこえなかった。やがて、男のうめき声がきこえはじめ、それがしだいに高まっていくにもかかわらず、女のそれはきこえなかった。  そのうちに、男の声がおいおい切迫してくると同時に、もののけはいも狂暴となり、ついに破局をしめす、傍若無人な怒号と化したあと、一瞬シーンと、あたりが静まりかえるまで、ついに女の声はききとれなかった。  しかし、それですべてがおわったわけではない。  ほんのみじかい小休止があったあと、またしても、男のあらあらしい息遣いと、うめき声が聞こえはじめた。しかも、その息遣いとうめき声が、しだいにたかまり、切迫していくにつれて、こんどは女の声がまじりはじめた。それはあきらかに、男と共通の使命にむかって、驀進《ばくしん》している声である。  はげしく箪笥《たんす》の鐶《かん》がなりはためき、たえいるばかりの女の声をきいたとき、おもとは畳のうえに顔をふせて、両手でひっしと耳をおさえた。  しかも、おなじようなことがもういちどくりかえされたらしいと感じたとき、おもとはもうだめだと、たもとをかんでひたなきに泣いた。  それから、小半刻《こはんとき》(小一時間)ほどのちのこと。  くらがりのなかで、かえりじたくをした男を、お染がしどけないかっこうで、縁先まで送ってでると、いつか雪はあがって、空にはうつくしい月がでていた。 「まあ、きれいなお月様だこと」  と、お染はうしろから男をだきすくめて、 「もし、丹様」 「ふむ」 「さっきの約束をわすれないでね」  と、あまい声でささやくのを、男はうわのそらで聞きながし、長合羽に、頭巾をかぶった顔をそむけるようにして、裏木戸から出ていった。  お染はしばらくぼうぜんと、うしろすがたを見送っていたが、やがて、雪の夜風が身にしみたのか、ゾクリとからだをふるわせると、座敷のなかへとってかえし、いま男とあまいかたらいを、かわしたばかりの寝床のうえに、わっとばかりに泣き伏した。  おさないお染はさいごまで、耐えうるつもりだったのである。  じっさい、はじめのうちは耐えぬいた。それはからだをたてに引き裂かれるのではないかと思われるほどの、はげしい肉体的な苦痛をともなった。嫌悪感《けんおかん》いがいのなにものでもなかった。こんなことにむちゅうになっている男を、世にも不潔な動物とさげすんだ。  やがて、そこにはげしいたつまきがおこり、それがおさまると同時に、男のからだが、阻喪《そそう》していくのをかんじたとき、お染はこれでおわったのだと思った。  もし、そこでおわっていたら、お染の青い果実は、ほんのちょっぴり、外側からよごされただけですんだろう。  しかし、それはじぶんの幼くて、甘いかんがえかただったことに、お染が気がつくまでには、それほどの時間はかからなかった。  女を本式に征服してしまわねば、承服できぬ男の獣性からか、それとも女にも喜びを分かちあたえてやりたいという男らしい使命感からか、男はしばらく呼吸をととのえたのち、ふたたび活力をとりもどした。  この男らしい鼓舞と鞭韃《べんたつ》にたいして、さいごまで抵抗するということは、どんな女にだって、不可能だったにちがいない。お染はいくどかじぶんをしかり、心の手綱をひきしめようとした。しかし、彼女のからだは心とははんたいに、しだいに女としての、甘美な自壊作用をおこしはじめ、いつかお染は息をあえがせ、身もだえしながら、共犯者として、男と行動をともにしていた。  そして、男のからだに、二度めのたつまきがはじまったとき、お染もからだのおくふかく、はげしい山津波をおこして、それを迎え、お染はひしと、男のからだを抱きしめていた。  おもとの聞いた絶えいるような声は、そのとき、お染の口から、ほとばしりでたものだろう。そして、もういちど、おなじことが繰りかえされるにおよんで、お染のからだは完全に、男と溶けあってしまった。  お染はそれをくやしいと、たもとをかんでひた泣きにないた。お染の心は、いまでも丹野丹三郎を、蛇蝎《だかつ》のごとく憎んでいる。しかし、お染のからだはうらはらに、男ののこしていった移り香を、恋い慕うているのである。  女はあいての男しだいで、身を持ちくずすものだということを、お染はいつか聞いたことがある。  お染はじぶんがそうなるのではないかと、心のなかで驚きあきれた。  しかし、どう考えてみても、丹野丹三郎みたいな男のために、身を持ちくずすのはいやだった。とすれば、舌かみきって死んでしまうか、それとも、あと追っかけて、丹野丹三郎を殺してしまうか。  きっと顔をあげたお染の目には、絶望的な殺気がほとばしっていた。  丹野丹三郎が死体となって、叶屋からほどとおからぬ火よけ地のそばで、雪に埋もれているのが発見されたのは、その翌朝のことである。  食い切られた小指   ——下手人は赤い手がらの娘だっせ 「よく冷えます。ゆうべはまた、やけにつもりましたね」  その翌日の朝まだき、雪をふんで、油町の自身番へかけつけたのは、いわずとしれた人形佐七。  うしろにはれいによって、辰と豆六が、おみき徳利のように顔をならべている。 「おや、お玉が池の親分、この寒いのに、はやくからご苦労でございます。辰つぁん、豆さん、なんだか、眠そうな顔をしているじゃないか」  つめていた町役人にからかわれ、 「あっはっは、こいつらはまだ、伸びざかりの食いざかり、眠いざかりときていますから、早起きとくると、だいの苦手なんです」 「いやですぜ。親分、十六、七の餓鬼じゃあるめえし。これでもお玉が池の辰五郎といやア、ちったアひとにしられた兄さんだ」 「さよ、さよ、それにつづいて豆六さんときたら、江戸中の娘でほれぬものなしや」 「あっはっは、そうか、よし、よし、それほどいい兄さんなら、目くそぐらいはとっておけ」  佐七は笑いながら、町役人をふりかえって、 「ときに、殺しがあったときいてきたんですが、死体は……?」 「まだ現場においてあります。じつは、まだご検視がおりないんで……」 「そうですか。それはちょうどさいわい。そのまえに、ちょっと見せてもらいましょう。ときに、殺されたのは、まむしの丹三ということですが、ほんとうですか」 「そうなんですよ、それについて、ちょっとみょうな話があるんですが、いずれあとでお話しするとして、とにかく、現場へご案内しましょう」  町役人が案内したのは、叶屋の裏木戸から、一町ばかりはなれた火よけ地のそばで、野次馬がはや二、三十人、ごまをちらしたように、雪の現場を遠巻きにして、たたずんでいた。  その野次馬のそばまでくると、佐七は立ちどまってあたりを見まわしたが、みると雪のうえに、三種類の足跡が往復している。 「この足跡は……?」  と、佐七が町役人にたずねると、 「はい、そっちの足跡は、いちばんはじめに死体をみつけた豆腐屋のおやじの足跡なんで。それから、それとこれは、わたしと番太郎の足跡です。豆腐屋のおやじは死体をみつけると、すぐに自身番へとどけてきたので、わたしと番太郎がかけつけてきたんです。そして、死体をちょっとあらためると、番太郎にいいふくめて、ここからさきへは、だれもとおさぬように取りはからったんです」 「すると、豆腐屋のおやじが死体をみつけたときにゃ、ほかに足跡はひとつもなかったんですね」 「そうです、そうです。だから、人殺しのあったのは、まだ雪の降っているさいちゅうだろうと思うんで。ほら、ごらんのとおり、死体のうえにも、そうとう雪がつもっております」 「なるほど」  そばへよってみると、丹三郎は火よけ地のそばを流れているどぶにはんぶん顔をつっこんで、うつむけに倒れており、腰からしたへかけて、まだふんわりと雪をかぶっていた。 「豆腐屋のおやじがみつけたときにゃ、頭のほうまで、雪をかぶっていたそうですが、びっくりして、抱きおこしたひょうしに、うえのほうだけ、雪がふりおとされたんです」 「なるほど。おい、辰、豆六、死体をちょっとおこしてみろ」 「おっと、がってんです。豆六、手をかせ」 「よっしゃ」  辰と豆六が抱きおこした顔をみて、 「なるほど、まむしの丹三にちがいねえな。いずれ畳のうえじゃ往生できねえやつだと思っていたが、とうとう年貢をおさめやがったか」  まむしと異名のある丹野丹三郎は、札つきのならずもので、お上のごやっかいになったことも、いちどや二度ではないから、佐七もよく顔をしっている。  としは三十五、六、色白の顔にさかやきをのばして、にがみばしった、ちょっといい男である。  藍微塵《あいみじん》の素袷《すあわせ》のうえに、みじかい袢天《はんてん》をきて、合羽をはおっているが、そうとう格闘をしたとみえ、合羽のひもはちぎれ、まえがはだけて、その胸元に、なにでつかれたのか突き傷があり、血が赤黒くこびりついている。  おそらく、そのひと突きが致命傷になったのであろうが、ほかにも手脚に、かなりかすり傷があった。  佐七はいまいましそうに舌をならして、 「これだけのかすり傷があるからにゃ、そうとう立ち回りがあったにちがいねえが……」  その痕跡《こんせき》は、雪のために、すっかり消されているのである。  ただ、丹三が首をつっこんでいたどぶだが、まだかなりあつく凍りついているのに、そのへんだけが、そうとう大きくひび割れているのは、立ち回りのあいだに、だれかが、このどぶへ落ちたのではないか。  佐七は注意ぶかく、どぶのなかをのぞいたが、そこにも、これという証拠らしきものは発見されなかった。  佐七がいまいましそうに、まゆをひそめて、舌をならしたちょうどそのとき、 「親分、ちょっとごらんなせえ。こいつ右手になにやらにぎっていますぜ」  辰に注意されてみなおすと、丹三は右手に、なにやら赤いものをにぎっている。 「辰、ちょっとその手のひらをひらいてみろ」 「へえ」  凍りついたようにこわばっている丹三の指を、いっぽん、いっぽんひらいてみると、丹三郎の小指は食いきられたように、半分なくなっている。 「親分、この小指の傷は、ずいぶん古いものらしいが、ゆうべこいつ、刃物をつかんだのにちがいありませんぜ。ほら、手のひらがこんなに切れている」  なるほど、みれば、丹三の手のひらはよこにふた筋、うすく切れているのである。 「はてな、これゃいったいどういう刃物だろう。両刃にしてもすこしへんだぜ」  そういえば、胸の突き傷も、ふつうの刀や匕首《あいくち》とはちがっていた。  佐七はだまってかんがえていたが、いい考えもうかばないのか、いまいましそうに舌をならして、 「ときに、辰、その赤いものはなんだ」 「親分、これゃア手がらですぜ」 「手がら……?」  佐七が目をまるくして、手にとってみると、なるほどそれはわかい娘が頭にかける鹿《か》の子《こ》しぼりの手がらであった。 「親分、そんなら丹三を殺した下手人は、わかい娘だっしゃろか」 「きっとそうにちがいねえ。丹三のやつは突かれたとき、苦しまぎれに、あいての髪から、この手がらをむしりとったんだ」 「しかし、辰、そんなら丹三の手のひらについている、この切り傷はどういうんだ」 「親分、それゃそれよりまえ、渡りあっているうちに、刃物をつかんだにちがいありませんぜ」 「なるほど。そういやアそうかもしれねえが……」  佐七はなんとなく納得のいきかねる顔色で、もういちどあたりを見まわしたが、なにしろ雪におおわれているので、なにが落ちていてもわからない。  どぶをのぞいてみると、そこも濁った水がかたく凍りついて、底までは見とおせなかった。  佐七は舌打ちをして、 「辰、豆六、いずれ雪がとけたら、もういちどこのへんを調べてみろ。だんな、それまではなるべく、ひとを寄せつけぬように願います」  そこへ、ご検視の役人が出張してきたので、佐七はいったん自身番へひきあげた。  丹様参るお染より   ——下手人はやはりお染に違いねえ 「だんな、それでさっきおっしゃった、みょうな話というのはどんなことなんで」  ご検視の役人もひきあげたので、それからまもなく町役人が、自身番へかえってくると、待っていた佐七が、いきなりそう尋ねかけた。 「親分、そのことなんですがね。これはじつは番太郎の話なんですが、おい、留じい、おまえからひとつ親分に申し上げろ」 「へえ」  と、水っぱなをすすりながら、番茶をいれてきたのは、番太郎の留じいである。  番太郎というのは、町内の小使いみたいなもので、ふつう、自身番のそばに小屋をもらって、いきどころのない老人などの役どころとされていた。  番太郎の留じいは、あかい鼻をこすりながら、 「ご近所のことですから、あまりとやかくいいたかアないのでございますが……」  と、おどおどしながら語るところによると……。  昨夜五つ半(九時)ごろ、留じいは火の用心に、町内をひとまわりした。  なにしろ、まだ大雪のさいちゅうで、往来は、犬の子一匹通らなかったが、叶屋の裏通りまでくると、ふと雪のなかに、まだあたらしい足跡がついているのに気がついた。  さては、だれかじぶんのまえを歩いていくものがあるのだなと、留じいがそう思いながら、つけるともなく、その足跡をつけていくと、どこかでかるく戸をたたく音がした。  そこでふっとむこうをみると、だれか叶屋の裏木戸に立っている。  そして、とんとんと戸をたたくしのびやかな音が、なにかの合図のようにおもわれたので、へんにおもった留じいが、すこし手前に立ちどまって、ものかげから、ようすをうかがっていると、やがて裏木戸がひらいて、 「丹様かえ」  と、女が出てきたのである。  むろん、それは、あたりをはばかる小声だったが、しずかな雪の夜更けのこととて、はっきりと留じいにきこえたのである。  それに対して、男がなんと答えたのかわからなかったが、やがてまた、 「さきほどからお染さまがお待ちかね。さ、ひとめにかからぬうちに、ちっともはよう……」  と、女の声がきこえると、そのまま男の手をひいて、木戸のなかへ消えてしまった……。 「わたしの話は、それだけのことなんですが……」  佐七はおもわず、辰と豆六と顔見合わせて、 「その声は、たしかに丹様かえといったんだな」 「へえ、それはもう間違いございません」 「そして、声のぬしとは……」 「姿はよくみえませんでしたが、叶屋の御乳母《おんば》さんの、おもとさんのようでございました」 「そして、お染というのは?」 「叶屋のひとり娘でございます」 「その男はたしかに、丹三にちがいなかったか」 「さあ、それもよくわかりません。あたりが暗うございましたし、それに、頭巾《ずきん》をかぶっていたようですから」 「頭巾……? しかし、丹三の死骸《しがい》は、頭巾なんかかぶっていなかったようだが」 「親分、それはどこか雪のなかに埋もれているのじゃございますまいか」  そばから口を出したのは、町役人である。 「なるほど。すると、丹三のやつは、ゆうべ御乳母の手引きで、叶屋の娘にあいにきたというのだな。だんな、お染というのは丹三のやつと、ちちくりあうような娘ですかえ」 「さあ、お染さんは勝ち気なところがあるが、そんないたずらな娘じゃないと思うんです。ただ、ここにちょっとおかしいのは……」  町役人はちょっと口ごもったのち、 「ご近所のことですから、いいたかアないんですが、叶屋さんでは、なにか弱いしりでもにぎられているのか、ちかごろちょくちょく丹三のやつがゆすりにくるという評判でした」 「叶屋のだんなというのは、そんな弱みのありそうなひとですか」 「とんでもない。叶屋の重右衛門さんは、ものがたい律儀なひとで、近所でも評判がいいんです。だから、みんなふしぎに思っているんですよ」  佐七は、ちょっと考えたのち、 「ときに、とっつぁん、その男が叶屋へ忍びこんだのは、五つ半ごろといったけね」 「さようで。雪が降っているさいちゅうでした」 「ゆうべ、雪のあがったのは何刻《なんどき》ごろだろう」 「そうですね。わたしが町内をひとまわりして、小屋へかえってきたころには、雲が切れはじめて、だいぶ明るくなってきましたが……」 「すると、丹三が殺されたのは、おまえが見かけてから、すぐあとということになるな。死体のうえには、そうとう雪がつもっていたから……」  佐七はまたちょっと考えて、 「とっつぁん。おまえ夜回りのとちゅうで、丹三の殺されているところをとおったかえ」 「いえ、あそこはわき道になってますんで……」  佐七がまた考えているときである。表のほうがにわかに騒々しくなったとおもうと、女がひとり、ころげるように駆けこんできた。 「ああ、お玉が池の親分さん!」  と、女はいきをはずませて、 「あたしゃくやしい。敵を討って……うちのひとの敵を討ってくださいまし」  と、わっとその場に泣きくずれたから、佐七をはじめ一同は、びっくりして目をまるくした。  みると、髪を櫛巻《くしま》きにした、ひとめで酌婦《しゃくふ》か、女郎あがりとしれる女である。 「なんだ、敵を討ってくれ。そういうおまえさんはいったいだれだ」  女は泣きぬれた顔をあげると、 「わたしは丹三郎の女房でお金といいます。親分、うちのひとはだまし討ちにされたんです。これを、この手紙をみてください」  お金がふところから取り出したのは、ぐしょぬれになった手紙だったが、それを読んでいくうちに、佐七はおもわず目をみはった。 [#ここから2字下げ] ひと筆しめしまいらせ候。さきごろより、たびたびねんごろなおことばをいただきながら、ひとめの関にへだてられ、落ち着いておかたらいするひまもなく、心にもなく無礼のみかさねまいらせ候。さて、今宵《こよい》は父も不在とあいなり、このうえなき上首尾ゆえ、五つ半ごろ裏木戸より、おしのびたまわりたく、合図はとんとんとんと、木戸を三べんおたたきくださるべく候。つもる話はいずれその節。  こがるる染より  恋しき丹三郎様まいる。 [#ここで字下げ終わり] 「お金さん、この手紙はどこにあったんだ」 「うちのひとの、箱まくらのひきだしにはいっていたんです。ゆうべあのひとがかえらないところへ、けさその手紙を見つけたもんだから、あたしゃもう、くやしくてくやしくて、かえってきたら、どうしてくれようと思っているところへ、近所のひとが、うちのひとの殺されているのを、知らせにきてくれたんです」  お金はまた、わっとばかりに泣きくずれた。  乳兄妹《ちきょうだい》   ——重右衛門だってあやしいもんだ 「親分、いけねえ。下手人はやっぱり、お染にちがいございませんぜ」  その日の夕刻のことである。ひと足さきに、佐七がかえって待っているところへ、いきおいこんで、舞いこんできたのはきんちゃくの辰である。 「辰、なにかまた、あたらしい手がかりがあったのか」 「手がかりというのはあの手がらです。おまえさんにいわれたとおり、あっしゃ叶屋へ出入りする女髪結いをききだして、そこへいってみたんです。叶屋へ出入りの女髪結いはお新といって、下谷に住んでいるんですが、そいつにあの手がらを見せたところが、たしかにお染さんの手がらにちがいないというんです。ねえ、親分、こうなったら一も二もありませんや。かわいそうだが、お染をあげちゃいましょうよ」 「そうよなあ」  佐七はしかし、なにかしら割りきれぬ顔色で、腕をこまぬいている。  辰はいくらかじれ気味で、 「親分、どこがいけねえというんです。丹三はゆうべ、お染のところへ忍んでいっているんですぜ。それからまもなく、丹三のやつは、叶屋のすぐそばで殺された。しかも、死体がお染の手がらを握ってたとありゃ、こんなたしかな証拠はないじゃありませんか」 「そういえばそうだが、おれにゃもうひとつ、納得のいかねえふしがある」 「納得のいかねえふしって、どういうことです」 「まずだいいちに、時刻のくいちがいだ。番太の留じいは、丹三が叶屋へ忍びこむところをみて、それから、町内をひとまわりして、小屋へかえったが、そのときにゃ、雲がきれかけて、空もだいぶ明るくなっていたといったろう。油町がどんなにひろいかしらねえが、町内をひとまわりするのに、そんなに手間がかかるはずはねえ。とすれば、丹三が叶屋へはいってからまもなく、雪はやんだということになる。ところが、丹三の死体のうえにつもっていた雪をみねえ。あれゃ殺されてから、そうとうながく降っていた証拠だ。かりに留じいのみた男が、それからすぐに叶屋をとび出し、あそこで殺されたとしても、あんなにゃ積もらねえはずだ」 「親分、それじゃ留じいのみた男は、丹三じゃなかったというんですかえ」 「時刻からいうと、そういうことになるな。そのころにゃ、丹三はもう殺されていたはずだ」  辰はぎょっといきをのんで、 「そ、それじゃ、親分、だれかが丹三を殺して、その身代わりになったというんですかえ」 「と、まあ、そんなことも考えられるわけだ。そいつは頭巾でおもてをつつんでいたというし、雪の夜更けのうすくらがりだ。御乳母がなにも気がつかず丹様かえと声をかけたのをよいことにして、そいつめ丹三になりすまし、叶屋へしのびこんだが、さてそのあとはどうなったか。あくまで丹三になりすまし、首尾よく、お染をものにしたか、しなかったか、そこまではこのおれにもわからねえが」  いつもなら、こんな話をきくと、有頂天になってよろこぶ辰だが、きょうはみょうに深刻な顔をして、 「親分、しかし、それはいったいだれでしょう」 「さあ、そこまではわからねえ。しかし、そいつは丹三がゆうべ、お染のもとへ忍んでいくということを知っていたんだから、丹三のなかまか、それともお染のまわりのものにちがいねえ。丹三の仲間とすると、探索にちと骨が折れるが、お染のまわりのものとすると、案外はやくわかるかもしれねえ。辰、叶屋のまわりのもので、お染にほれているやつはねえか」  それをきくと、辰はにわかにひざを乗り出した。 「親分、それならあるんです。いえ、お染のほうからぞっこんほれて、思いをこがしている男があるんです」 「だれだえ、それは……?」 「お染の乳母のせがれで、三吉というんです」  佐七はおもわず目をみはって、 「そして、そいつはどこにいるんだ」 「おなじ町内の鳶頭《かしら》、よ組の長兵衛のところに、若いものとして預けられているんです。叶屋の重右衛門も目をかけて、いろいろ面倒をみているし、お染もほれてるんですが、乳母のおもとがじぶんのせがれをご主人のお嬢さんに取りもったといわれちゃ、世間にたいしてめんもくないと、がんとして承知しないんです。三吉のほうでも、内心お染にほれてるらしいんですがね」 「おもとというのは、どういう素性の女だ」 「親分、それには、ここに話があるんです」  と、辰の語るところによるとこうである。  おもとの亭主は清兵衛といって、もうれつな法華《ほっけ》の信者だったが、いまから十六年ほどまえ、講中からあつめた三百両という金を、甲州の身延山へおさめにいった。  ところが、それっきり、行方がわからなくなったのである。  清兵衛はかたい男で、金を持ち逃げするような人物ではないから、これはきっととちゅうで、悪いやつに殺されたにちがいないといわれているが、ここに哀れをとどめたのは、女房のおもとで、当時二つになったばかりの三吉をかかえて、路頭に迷っていたところ、それからまもなく叶屋で、お染がうまれたので、口を利くものがあって、乳母として住み込んだのである。 「三吉は、おもとの親戚《しんせき》にあずけられていましたが、としごろになったので、重右衛門がひきとってやろうというのを、おもとがそれではすまないからと、承知しないので、出入りの鳶頭のところへ、あずけられているんです。お染のほれるのもむりはねえ、いい若い衆だそうですよ」 「しかし、お染はそういうほれた男があるのに、なんだって丹三みたいなやつに、呼び出しなどかけやアがったろう」 「親分、それですよ。こりゃやっぱり、重右衛門は丹三になにかよわいしりを握られてるんじゃありませんか。それをたねにお染をくどいた。お染も親のためと観念して、丹三に身をまかせる気になったんじゃありますまいか」 「おれもそれを考えるんだが、そうなると、重右衛門だってあやしいもんだ。あいつはほんとうに、親戚のお通夜にいっていたのか」 「へえ、その親戚というのは本郷なんですが、重右衛門がそこへ着いたのが五つ半(九時)ごろだから、いままで大丈夫だと思っていたんですが、親分のいうように、丹三の殺されたのが、それよりもまえだとすると、こいつもどうも……」  佐七はだまってうなずいて、 「しかし、ここにわからねえのは、丹三の死体がにぎっていた手がらだ。下手人が重右衛門にしろ、三吉にしろ、じぶんの娘やほれた女に、罪をおっかぶせるようなまねをするはずがねえ。それに、丹三のあの傷口と手のひらのきず、どうもこいつがふにおちねえ」  佐七が考えこんでいるところへ、鼻の頭をまっ赤にしてかえってきたのは豆六である。 「おお、寒ッ、こら、こんやも雪になりまっせ」 「おお、豆六、お金のほうはどうだ」 「へえ、だいたい調べてきました。お金ちゅうのは、品川の女郎あがりで、去年、年季があけたんで、丹三のところへころげこんできたんやそうだすが、こいつおそろしいやきもち焼きで、丹三のやつと年中、やきもちげんかのたえまがなかったちゅう話だす」  佐七はだまって考えこんだ。  前門のとら後門のおおかみ   ——昨夜身をまかせた男は一体だれ?  豆六の予言のとおり、その夜はまた大雪になって、江戸の町は、まっ白に降りこめられたが、油町の叶屋では、その雪をまっ赤にそめて、またしても、大惨劇が演じられたのである。  その夜、お染はただひとり、はなれ座敷のこたつにもたれて、ふかいもの思いに沈んでいた。  丹三が殺されたということは、お染の耳にもはいっていた。  そのことはお染にとって、このうえもない喜びだったが、いっぽう彼女に、はげしいショックをあたえたのは、丹三が殺されたのは、まださかんに雪の降っていたあいだらしいといううわさである。  お染はそれを聞いたとき、のけぞるばかりにおどろいた。  ゆうべお染が丹三を送りだしたときには、雪はもうやんでいて、空にはきれいな月が出ていた。  あれからのちに、丹三が殺されたとすれば、死体のうえに、雪がつもろうはずはない。  これをぎゃくにいえば、丹三がまだ雪の降っているうちに殺されたとすれば、じぶんがゆうべ身をまかせたのは、いったいだれだったか……。  お染はそれを考えると、ゾッと身内がすくむようなおそろしさと、あさましさに、心がおののく。  そういえば、ゆうべの男は、日ごろの丹三のようではなかった。  お染はすぐに、行灯《あんどん》の灯をふき消したので、とうとう男の顔をみずじまい。男はまた、ひとことも口をきかなかったが、丹三ならば、あのように神妙にしているはずがない。くらがりのなかで手をとって、お染がそばへひきよせたとき、男はガタガタふるえていた。  お染はそれを、寒さのためとかんがえたが、いまから思えばそうではなかった。  そして……そして……お染はけっきょく身をまかせたのだが、そうなるまでには、男は少なからずためらっていた。丹三ならばそんなはずはなく、しゃにむに、押してきただろう。前門のとらをさければ、後門のおおかみとはこのことだった。  丹三の毒牙《どくが》をのがれたのはうれしいけれど、そのかわり、どこの何者ともしれぬ男に、おもちゃにされてしまったのだ。  お染のはじめの考えでは、たとえからだは自由にされようとも、心までゆるさぬ覚悟であった。  お染はそれができると信じていた。  それにもかかわらず、お染はいつか、男のはげしく、たくましい鼓舞|鞭韃《べんたつ》に、ひきずりこまれて……  ああ、あさましい、このまま死んでしまいたい……  お染はこたつに顔をふせて、身も世もあらずもだえたが、ふいにはっと顔をあげた。  とん、とん、とん、とん、とん、とん……  裏木戸をたたく音がする。  時刻はちょうど五つ半(九時)。お染はゾッと肩をすくめた。 「乳母や、乳母や」  小声で呼んだが、返事はなかった。おもとはけさから、どっと患いついたのである。  とん、とん、とん、とん、とん、とん……  また戸をたたく音がする。お染はふらふらと立ち上がった。  雨戸を一枚くってみると、外にはくるったように、白い雪が舞いおちている。  とん、とん、とん、とん、とん、とん……  雨戸の音に力をえたのか、木戸をたたく音はいよいよ強くなる。このままほうっておけば、家のものにしられてしまう。  お染は、庭下駄《にわげた》をひっかけて、裏木戸のそばまでいった。 「だれ? 戸をたたくのは……?」  しかし、返事はなくて、ただ戸をたたく音ばかり。  お染はこわごわ、しかし、思いきって、とうとう木戸をなかからひらいた。  そのとたん、雪のなかから、黒いつむじ風のようにおどりこんできた女が、 「亭主の敵!」  と切りつけた。 「あれえ!」  よける拍子に、お染は雪のなかに滑ってころんだ。  しかし、結果からいえば、それがよかったのである。  匕首《あいくち》が宙にながれて、女がよろよろ泳ぐところへ、お染は雪をつかんでむちゅうで投げたが、それがまんまと顔にあたって、 「畜生!」  ひるむすきに、お染は雨戸のなかへ駆けこんで、 「だれかきてえ、人殺しイ……」  あるじの重右衛門は、そのまえからただならぬ物音に気がついて、はっとはなれへ駆けつけてきたが、そこに倒れているお染をみると、 「これ、娘、どうした、外にだれかいるのか」  と、雨戸のすきから外をのぞいたが、そのとたん、外から突いてきた匕首に、われから、ふかぶかと、土手っ腹をえぐられて、 「わっ!」  と、その場にしりもちついた。  あわてたのは女である。この人違いに度をうしなったのか、身をひるがえして、木戸から外へとび出したが、ちょうどそこへきかかったのが、ひとめで鳶《とび》としれる若者だった。 「やっ、くせ者!」  おどりかかって利き腕をたたくと、女はもろくも刃物を落とした。そのかわり、鳶の者も雪にすべって泳ぐすきに、女は雪をけって逃げだした。だが、ものの十歩といかぬうちに、むこうからきた三人づれが、女をみると、 「やっ、おまえはお金じゃねえか」  そういう声は佐七である。お金はそれをきくと、雪のなかをいちもくさん。佐七ははっとして、 「辰、豆六、お金をつかまえてこい。おれは気になるから、叶屋へいってみる」 「がってんです」  辰と豆六が雪をけたてて、お金のあとを追っかけるのを見送って、佐七が叶屋の裏木戸までくると、鳶の者が、血にそまった匕首を持って立っていた。 「ああ、おまえは、もしや三吉じゃねえか」 「そういうおまえさんはお玉が池の親分。いまここを通りかかると、女が血にそまった匕首を持って、とび出てきたんです」 「よし、はいってみよう。おまえもこい」  三吉をつれて、佐七がなかへとびこむと、重右衛門は娘のお染と、乳母のおもとに左右からかかえられ、もう虫の息だった。  昨夜の男の正体は   ——丹三郎を殺したのはこのわたし 「それじゃ、あの女はおまえさんに、亭主の敵と切りつけたというんですね」 「はい」 「もし、お染さん、おまえさんなにか、そんなおぼえがありますかえ」 「とんでもない、親分さん」  お染はおびえて胸をかかえた。  あれからすぐに医者が駆けつけてきて、けが人の手当をしていったが、重右衛門はよほどの重体で、ひょっとすると、命もおぼつかないという話であった。  そのまくらもとで人殺しの詮議《せんぎ》とは、むごい話と思ったが、これも御用とあらばいたしかたがない。 「もし、お染さん、正直にいってくださいな」 「正直にいえとは……?」 「おまえさんはだれも知らぬと思っていようが、ゆうべおまえが丹三のやつを、裏木戸からひっぱりこむところを見ていたものがあるんです」  お染ははっと顔色かえたが、三吉のほうをみると、まっ赤になってうなだれる。  佐七はそれへたたみこむように、 「そこで、どんな話があったのかしらねえけれど、丹三のかえりのあとをつけ、ぐさっとひと突き……もし、お染さん」 「は、はい……」 「これに見おぼえはありませんか」  さし出された手がらを手にとってみて、お染はふしぎそうに目をみはった。 「こ、これはあたしの手がらですけど」 「たしかに間違いございませんね」 「は、はい。でも、これがどこに……」 「丹三の死体がにぎっていたんですよ。もし、お染さん、こうなったら、なにもかも素直に白状してくださいよ」  それをきくと、お染はもう身も世もあらぬおもいで、わっとばかり泣きふした。  さっきからはらはらしながら、ふたりの問答をきいていた三吉が、だしぬけによこから叫んだのは、そのときだった。 「ちがう、ちがう、親分、それはちがいます」 「なんだ、三吉、ちがうとはなにが……?」 「親分はいま、お染さまが丹三のあとをつけ、突き殺したとおっしゃいましたね」 「ああ、そういった。それがどうかしたのか」 「しかし、丹三の殺されたのは、まだ、さかんに雪が降っているあいだだったというじゃありませんか」 「そうよ。それで?」 「だからちがうんです。ゆうべ、お染さまが男を送りだしたときには、とっくに雪はやんで、空には月が出ていたんです。お染さまも縁側で、きれいなお月様とおっしゃいました」  さっきから泣き伏したまま、三吉の話をきいていたお染は、それを聞くと、はじかれたように顔をもたげた。  びっくりして、目をまるくして、 「三吉、それをどうしておまえが……」 「ゆるしてください、お染さま、ゆうべの男は、わたくしでございました」 「あれ、三吉!」  お染のほおに、ぱっとはじらいの色が散る。 「だって、おまえが、どうして……」 「わたしが……わたしが丹三の身代わりになって、お染さまと、まくらを交わしたのでございます。ゆるしてください。堪忍してくださいまし」  三吉ががばとそこにひれ伏した。  さっきから、意外ななりゆきにあきれかえって、目ばかりパチクリさせていたおもとは、それときくより、いきなり三吉におどりかかった。 「おのれ、おのれ、この横道者めが……」  歯をギリギリとかみながら、三吉のもとどり取ってねじふせるその形相のすさまじさ。 「おのれはまあ、なんという不埒《ふらち》なやつ、大恩あるご主人様のお嬢様を傷物にして、それですむと思いおるか」 「あれ、おもと」 「いいえ、お嬢様、はなしてくださいまし。知らぬこととはいいながら、げんざいのわが子を手引きしたこのわたくしが恥ずかしい。おのれ、どうしてくれようぞ」 「あれ、もう、おもと。堪忍してあげて……」 「これ、御乳母さん、三吉にゃまだ話があるんだ。お仕置きをするならあとにしてくれ」  たけりたつ、おもとを突きはなすと、 「これ、三吉、それじゃおまえは、ゆうべ丹三が、お染さまのところへ忍んでくることを知っていたのか」 「は、は、はい、あの、さようでございます」  三吉は声をふるわせて恐れいる。 「それで、とちゅうで丹三を待ちぶせ、殺しておいて、身代わりになったというんだな」 「は、はい、お、おっしゃるとおりでございます」 「しかし、この手がらはどうした。これもおまえが、死骸《しがい》に握らせておいたのか」 「は、はい……」 「この手がらはいつ手に入れた」 「それは、あのう……きのう昼間、こちらへお伺いいたしましたときに……」  さっきから不審顔で、なにやら考えていたお染は、なにを思い出したか、そのときはたとひざをたたいて、 「ちがう、ちがう、親分さん、それはちがいます」 「おやおや、またこっちから、ちがう、ちがうがとび出したな。お染さん、なにがちがうんです」 「親分さん、三吉はあたしをかばうために、うそをついているんです。乳母や、おまえも覚えておいでであろう。おとといの晩、おまえといっしょに、おふろへはいったとき、おまえがこの手がらをせんたくしようとして、あやまって流し口へ流してしまったじゃないか。これはたしかに、あのとき流した手がらだよ」  おもとは手にとってみて、 「ほんに、そういえばそのとおりでございます。しかし、これがどうして……」 「どうしてだか知らないけれど……親分さん、ですから、この手がらは、きのうはどこかのみぞに浮いていたはずでございます。それを、きのう三吉がこの家で手に入れたなどとは、それこそなによりうその証拠」  佐七はきらりと目を光らせたが、やがてひざをのり出すと、 「もし、お染さん、それじゃもしや、お宅のふろ場の流し口は、火よけ地のそばのみぞへつづいてはおりませんか」 「はい、うちのおふろからものを流すと、よくあのへんへ流れていくんです」  佐七はだまって考えていたが、そこへどやどや足音がちかづいてきたかとおもうと、お金のからだを戸板にのせて、はこばせてきたのは辰と豆六である。 「親分、いけねえ。お金のやつ大川へとびこんで、凍え死んでしまいやアがった」 「ところが、親分、けったいなことがおまんねん。お金の手のひらにも丹三とおんなじような切り傷がおますやないか」 「なに、お金の手のひらにも……」  佐七は庭へとびおりて、念入りにお金の手のひらをしらべていたが、急にはればれと笑い出したのである。  縁結びとんとんとん   ——チェッ、うめえことしやアがった 「もし、お染さん、三吉もよろこべ。丹三殺しのほんとうの下手人がわかりましたよ」 「えっ、親分、ほんとの下手人とは?」  お染三吉、おもわず佐七の左右からすりよった。 「ほかでもねえ、そこに死んでいるお金よ」 「親分、それゃアほんとですか」 「そうよ。辰も豆六もよくききねえ。お金は亭主のあとをつけ、あの火よけ地のそばまで追ってきたんだ。そして、そこでれいによって、おっぱじめたのがやきもちげんか。おこったのは丹三よ。こりゃおこるのがあたりまえ、もう少しのところで、お染さんがものになると、ほくほくしていたところだから、むしゃくしゃ腹で、お金をみぞへ突きおとした。突き落としたばかりじゃまだあきたらず、うえからお金に打ってかかった。そこで、お金はくやしまぎれに、手当たりしだいになにやらつかんで、したから丹三を突きあげた。そのひと突きで丹三は死んだが、死ぬとき右手で凶器をつかんだんだ。ところで、辰、豆六、その凶器をなんだと思う」 「へえ、なんでしょうねえ。刃物かなんかが、どぶに落ちていたんですかえ」 「落ちていたんじゃねえ。張りつめていたんだ」 「張りつめていたア? 親分、そら、なんのこったす」 「あっはっは、まだわからねえのか、氷よ」 「こ、氷……」  辰と豆六のみならず、その場にいあわせた連中は、のこらずびっくりして目をまるくした。 「そうよ。どぶにゃ氷が張りつめていたが、お金が突きとばされたはずみにメリメリ裂けた。そのなかにきっと、槍《やり》のように、先のとがったやつがあったにちがいねえ。お金はむちゅうでそれをつかんだ。そのとき、お金の手のひらに、ああいう傷ができたんだ。それでしたからぐさっとひとつき。殺すつもりはなかったが、これで丹三はお陀仏《だぶつ》よ。これにゃお金もおどろいて逃げ出してしまったが、あとにのこったのは氷の刃よ。突かれたときに、丹三がそれをつよく握りしめた。握りしめたまんま、こと切れてしまったんだが、おもしろいことに、その氷のなかにゃ、おとといここの風呂場から流れていった手がらが、凍りついていたんだ。さて、氷のひと突きで丹三は死んだが、死んだからって、そういっときにからだが冷えるもんじゃねえ。はだのぬくみで氷は解ける。そして、手がらだけが丹三の手にのこったわけだ。あっはっは、これほど珍しい事件はちょっとあるめえな」 「そういえば、あのときどぶはすっかり凍りついていたのに、丹三が首を突っこんでいたしただけは、ひどく氷が割れてましたね」 「もののはずみというもんの、氷がなあ、これも天罰ちゅうもんだっしゃろかいな」  あまりのことに一同はあきれかえって、しばらくことばも出なかった。 「さて、お金は亭主を殺すつもりじゃなかった。そこで、お染さんを罪におとすつもりで、あの呼び出し状を、おいらのところに持ってきたんだ。辰、豆六」 「へえへえ」 「あのとき、おいらが、この手紙はいったいどこにあったときいたら、亭主の箱まくらのひきだしにはいっていたのを、けさになって見つけたといったろう。ところが、お金の持ってきた手紙はぐしょぬれだった。箱まくらにある手紙が、あんなにぬれてるはずがねえ。おいらはそのとき、お金が怪しいとにらんだんだ。おおかた、あの手紙は丹三のやつが、後生大事にはだにつけていたんだろう。それを火よけ地の立ち回りのうちに、雪のなかへおっことした。お金はそれを拾ってかえって、くやしまぎれに、ひきさくつもりかなんかでいたんだが、急に気がかわって、恐れながらと、おいらのところへ駆け込んできやアがったんだ」 「なアるほどねえ」 「お金はそれで、すぐにもお染さんがひっくくられると思っていたのに、いっこうそういう気配がねえので、とうとう腹にすえかねて、亭主の敵とやってきたんだ。あっはっは、外道の逆恨みとはこのことだが、そのあげくが、じぶんも亭主のあとを追うはめになったんだから、これこそ天網|恢々疎《かいかいそ》にしてなんとやらというやつだなア」  これで、丹三殺しの一件はのこらずわかった。  しかし、わからないのは、ゆうべお染のもとへしのんできた男である。  佐七は三吉のほうをふりかえると、 「おい、三吉」 「は、はい」 「ゆうべお染さんが、男を送り出すときにいったことばを知っているところをみると、ゆうべの男はやっぱりおまえだな」 「は、はい……」 「しかし、丹三が忍んでくるのを知っていて、それをとちゅうで待ち伏せして、殺したあげく、身代わりになったというのはうそだろう」 「は、はい、面目しだいもございませぬ。ああいわぬと、お染さまが罪に落ちそうで……」 「べらぼうめ。ありゃお染さんにカマをかけていたんだ。しかし、三吉、これからうそをつくなら、うそだけならべろ。そうすりゃすぐに見破ってやる。しかし、さっきのように、うそとまこととこきまぜてやられると、さすがのおれにも判断がつきかね、ひょっとすると、おまえがやったんじゃあるめえかと、おらアびっしょり冷や汗かいたぜ」 「親分がなぜ……?」 「あっはっは、おらアおまえが気にいったのよ。それに、おまえが獄門にでもなってみねえ。お染さん、とても生きちゃアいねえぜ」 「親分、申し……わけございませぬ」  三吉は畳に額をこすりつけて泣いていた。 「あっはっは、なにもおれに謝るこたアねえ。それより、三吉、こうなったら、なにもかも正直にいってしまえ。おまえどうしてゆうべ、お染さんのところへ忍ぶはめになったんだ」  それを聞かれると、三吉は穴あらばはいりたいほどはじろうたが、しかし、こうなったらもう、かくし通すわけにはいかなかった。  そこでかれが物語るところによると、それこそ、世にも珍妙ないきちがいがあったのである。  ゆうべ、三吉はとなり町のさるだんなのところで、したたか酒をふるまわれた。ところが、そのうちに雪になったので、かえりには、だんなが頭巾と合羽をかしてくだされた。 「そこで千鳥足でひょろひょろと、この裏木戸までまいりますと、下駄の歯に雪がはさまってあるけませぬ。その雪をおとそうと、とんとんとん、とんとんとんと、足で木戸をけっておりますと……」  それを合図とまちがえて、おもとが出てきたのである。  しかも、おもとが丹様かえと声をかけたのを、三吉は三様かえとききちがえて、はいと答えたのである。  それというのがお染三吉、いつもふたりきりでいるときに、お染は三吉を三様と呼ぶのである。  それにしても、げんざいの母親が、様づけはおかしいが、なにしろ酔うていたので、そんなことは考えるいとまもなかった。 「ほんとに、いまから考えると、そら恐ろしゅうてなりませぬが、なにしろ酔うておりましたので、くらがりのなかでお染さまに、手をとってひきよせられると、わたくしもつい……」 「うれしい夢をむすんだのか。あっはっは」 「面目しだいもございませぬ」 「あれ、まあ、三吉……」  からみあって、燃えさかったゆうべの行動をおもいだすと、お染はあまりの恥ずかしさに、まっ赤になって、そでで顔をおおうたが、しかし、彼女はうれしいのである。  どこの何者におもちゃにされたかと、生きているそらもなかったのに、思いきや、あいては恋いこがれる三吉だったろうとは、それこそたなからぼたもちだろう。 「チェッ、うめえことしやアがった」  と、辰と豆六は、いかにもうらやましそうな顔色だった。 「おもと。おもと……」  そのとき、苦しそうな息のしたから、乳母の名を呼んだのは重右衛門だった。 「は、はい、だんなさま」  にじりよるおもとの手をとって、 「これでおまえも異存はあるまい。三吉はゆうべお染とまくらをかわした。このうえおまえが我を張ると、お染は傷物になってしまうぞ」 「だ、だんなさま、申しわけございません」 「いいや、これでよいのだ。これ、お染、仏壇のひきだしに、きりの箱があるから持ってきてくれ」  お染はふしぎそうに座を立ったが、やがて古びたきりの箱を持ってきた。 「おもと、それをあけてみい」  おもとがふしぎそうに箱をあけると、なかから出てきたのは、大きな縞《しま》の財布である。財布のうえにどっぷりついた黒いしみは、ひょっとすると、血ではあるまいか。 「おもと、その財布に見おぼえはないか」  おもとははっと息をのみ、 「ああ、これは、十六年まえに身延参りのそのとちゅうで、ゆくえしれずになった清兵衛殿の……」 「そうじゃ、三吉の父の財布じゃ。おもと、三吉、ようきけよ。清兵衛殿は十六年まえ、身延参りのそのとちゅうで、ひと手にかかってお果てなされた」 「え、え、ええっ!」  おもとはのけぞらんばかりである。三吉もはっと顔色かえる。佐七をはじめ辰と豆六は、息をのんで、重右衛門の顔を見つめている。  重右衛門はくるしい息をつなぎながら、 「と、こう申したところで、清兵衛殿を殺したのはわしではない。おもと、財布をあけてみい」  おもとが財布をあけてみると、なかから出てきたのは、ひとにぎりの髪の毛と、小さい白い骨である。 「その髪の毛こそは清兵衛殿のかたみ、またその骨は清兵衛殿を殺したやつの小指の骨だ。清兵衛殿は殺されるとき、下手人の小指をかみきられたのだ」  佐七ははっと、辰や豆六と顔見合わせる。そういえば、丹三の右手の小指は、半分なくなっていたではないか。  重右衛門がくるしい息のしたから語るところによると、こうである。  十六年まえ、重右衛門は商売が手詰まりになり、どうしても、まとまった金をつくる必要にさしせまられた。そこで、甲府の親戚《しんせき》のところまで金策に出かけたが、当てごととなんとやらは、むこうからはずれるのたとえのとおり、けっきょく工面もつかず、思案投げ首でかえる道すがら、とある峠できこえてきたのが、 「人殺しイ、助けてえ……」  と、いう悲鳴である。  重右衛門は町人ながらも度胸もあり、腕も立った。  おのれ悪者とかけつけると、その足音におどろいたのか、それとも、小指をかみきられた痛さにたえかねたのか、悪者は逃げてしまって、あとにはむごたらしゅう切られた旅人が、血まみれの小指をくわえて虫の息だった。  それが清兵衛だった。清兵衛は名前とところをつげ、財布を重右衛門にことづけると、それからまもなく息をひきとった。重右衛門は遺髪をきりとり、死骸《しがい》をていねいに埋葬すると、財布を遺族にわたすつもりで、その場を立ち去った。 「そこまではよかったのでございますが、おぼれるものはわらをもつかむ、とちゅうで魔がさして、とうとう、三百両を着服してしまったのでございます。ところが、それが呼び水になったのか、その後は身代をもちなおし、とんとんびょうしに家の繁盛。そのせつ、三百両の金は清兵衛殿の講中の名で、身延におさめておきましたが、そんなことで犯した罪の消えるはずはなく、せめてもの罪ほろぼしにと、おもと三吉をひきとって……」  重右衛門の息はしだいにくるしくなる。佐七はひざをのり出して、 「なるほど、丹三にゆすられていたのは、そのことですね」  重右衛門はかすかにうなずき、 「あいつは清兵衛殿を殺したのち、ものかげに身をかくして、わたしのようすを見ていたんです。そして、しつこくあとをつけてきましたが、そのせつは、江戸へはいるまえにまいてしまいました。ところが、去年あるところで、ばったり会うと、むこうでは、わたしの顔をおぼえておりまして、あのときの金は、おまえが着服したにちがいないと、ゆすられると、脛《すね》に傷もつ身のかなしさ、親分もごらんになったでしょうが、あいつの右手には小指が半分ございません。さては、こいつこそ、清兵衛殿を殺した下手人と気がついても、それをいい立てれば、わが身の罪も露見するどうり……」 「お染さんもそれをたねに、くどかれたんですね」 「はい。あいつのいうのにおまえのおとっつぁんは、十六年まえに人殺しをして金を奪ったと……よもやそんなことをと思っても、ちかごろのおとっつぁんが、あいつのまえに頭があがらぬのが不審のたね、それでわが身をいけにえにして、あいつの口をふさごうと……」  お染はくやしげに歯をかんだが、そのとき重右衛門はにっこり笑って、 「しかし、おもえば丹三こそ、お染三吉のむすびの神、三吉がいかに下駄の雪をおとそうと、裏木戸をけったところで、丹三としのびあう約束がなかったら、なんでお染がうちへいれましょう。こうしたまちがいがおこったのも、もとはといえば丹三めがお膳立《ぜんだ》てしておいてくれたゆえ、しかも、その丹三が、人手にかかって死んだというのも、これひとえに草葉のかげから清兵衛殿のおみちびき、これ、おもと、憎かろうがゆるしてくれ、そして、お染と三吉をみょうとにして……」 「だ、だんなさま!」  おもとはたもとをかんで泣きふした。  その夜の明け方、重右衛門はとうとう息をひきとった。しかし、そのまえに、お染三吉、重右衛門のまくらもとで、あらためて夫婦の杯をかわしたが、なんと、その媒酌人《ばいしゃくにん》をつとめたのが、だれあろう、人形佐七だったということである。     三河万歳  春宵《しゅんしょう》才蔵品定め   ——女房のやくほど亭主《ていしゅ》もてもせず 「春|太夫《だゆう》さん、ことしは、いい才蔵にいきあたってしあわせだね」 「おかげさんで。去年は酒乱の才蔵をひきあてて、みなさんにまでご迷惑をかけ、いやもうさんざんだったが、ことしは運がいいようだ」 「去年の辰市《たついち》という男には弱ったな。わたしもいちど、胸倉とって小突きまわされたことがある」 「どうもわたしはこの二、三年、才蔵運がわるいというのか、ろくな才蔵にめぐりあわなかったが、ことしで埋め合わせがつくのだろうよ」 「まったく、こればかりは運賦天賦、女房のわるいのは一生の不作というが、万歳にとっちゃ、才蔵のわるいのは一年の不作だあね」 「いや、いずれにしても春太夫さん、よい才蔵にめぐりあっておめでとう」  そこは神田|馬喰町《ばくろちょう》にある三河屋という旅籠屋《はたごや》の一室である。  この三河屋というのは、三河万歳の定宿になっていて、まいねん、年の暮れになると、三河から出府してくる万歳たちが、七草から松の内、ながいのになると、正月いっぱい滞在して、江戸の春をことほいで歩くのである。  ことしも、六人ばかりの三河万歳が逗留《とうりゅう》しているが、七草もすぎると、だいたい、かせぎの勝負もついたようなもので、ほっとした気持ちの万歳たちは、ひと間に集まり、アミダかなんかでいっぱいやりながら、冬の夜長をくつろいで、才蔵の品定めなんかやっている。  角兵衛獅子《かくべえじし》や鳥追いとともに、江戸の春のお景物として、なくてかなわぬ三河万歳は、その名のとおり、三河の国から出てくるのであるが、万歳につきものの才蔵は、かならずしも太夫といっしょに、三河からくるとはかぎらなかった。  現今の三河万歳は、はじめから、太夫と才蔵がいっしょらしいが、江戸時代の才蔵はおおく総州、野州のへんから出てきた。  ことに我孫子《あびこ》へんの百姓がおおく、農閑期を利用して、江戸へ出かせぎにくるのである。かれらは暮れの晦日《みそか》に、日本橋の南詰めへ集合するが、これを才蔵市といった。  三河の国から出てきた太夫は、そこへでむいて、おのれのこのむ才蔵をえらび、賃金をさだめて雇い入れると、そのひと春をコンビとして、江戸の町々をかせいであるくのである。  だから、才蔵に当たりはずれのあるのは、やむをえないし、道化役才蔵がまずいと、万歳は、台無しである。  また、芸のほうはたしかでも、去年、春太夫がつかんだ辰市という才蔵のように、酒乱の気味があったりすると、じぶんも不愉快だし、はたも迷惑する。  とにかく、江戸にいるあいだは、起居をともにするのだから、芸以外の人柄にも当たりはずれがあるわけだ。  もっとも、このことは、才蔵のがわからもいえるだろう。  春太夫はじぶんでもいっているとおり、どういうものかこの二、三年、才蔵運がわるくて、ろくな才蔵にぶつからず、毎年、いやな思いをさせられたが、ことし雇い入れた亀丸《かめまる》というのは、芸もたしかだし、あいきょうもあり、人間もおだやかなところから、宿へかえっても、ほかの太夫にも気受けがよかった。 「あの亀丸というのはどこのものだね。ことばをきくと総州か野州だが、手をみると百姓じゃないね。田舎でなにをしているのかね」  まえにも述べたとおり、万歳と才蔵は生国がちがうので、こんやは才蔵は才蔵で、べつの部屋にあつまって、これまた、いっぱいやっているのである。 「さあ、それだがね、わたしもときおり聞いてみるんだが、くわしいことは話したがらない。我孫子のちかくの村だというが、からだがあまり丈夫でないので、百姓のほうは家内にやらせて、じぶんは村の走りつかいなどやる片手間に、荒物屋をやっているというが、それにしちゃ、人柄が良すぎるようにおもう」 「才蔵ははじめてなんだね」 「こんどはじめて、江戸へ出てみたといっているが、器用なんだね。うまく調子をあわせてくれる。これだけの腕をもちながら、どうしていままで、やらなかったと聞いてみても、笑っていてこたえない」 「おかみさんがヤキモチやきで、江戸へだすのをこわがるんじゃないかな。女房のやくほど亭主もてもせずって、川柳を知らないでね」 「おや、駒太夫《こまだゆう》さん、それはわれわれにたいするあてこすりかい」 「あっはっは、ちがいない。駒太夫さんの失言失言」  そこで、万歳の太夫たちは、陽気に笑いはじけたが、なかのひとりが思いだしたように、 「ときに、春太夫さん、亀丸はこんやどこかへ出かけたのかえ。むこうの才蔵たちの部屋にも、すがたがみえないようだが……」 「ふむ、こんやはちょっと遊びにいかしてくれと出かけたが……」 「それ、それ、それがいけない。だから、おかみさんが角をだすのだ。春太夫さん、もっと監督をげんじゅうにしないと、いまにおかみさんにかみつかれるぜ」  一同はまたどっと笑いはじけたが、春太夫だけは笑わなかった。  じつをいうと、春太夫は亀丸にたいして、あわい疑惑をもちはじめているのである。  どう考えても、亀丸は才蔵などをする人柄ではない。それに、ひとまえでは陽気にあいきょうをふりまいているが、どうかすると、ふうっと、くらい思案の影がさすことがある。  それに、もうひとつ気になることは、人の家の軒をくぐるとき、かれの目はいつも、なにかをもとめるように緊張している。そして、家のなかへとびこむと、すばやくあたりを見まわす目つきが、たしかになにかを探し求めているらしいのである。  なるほど、才蔵となって万歳といっしょに歩くと、どんな家へでも遠慮容赦なくとびこめる。  そこをねらって、才蔵になって、じぶんと組んだのではないか。  そういえば、もうひとつおかしいことがある。いったい、三河万歳には、屋敷万歳と町方万歳の二種類ある。屋敷万歳というのは、武家屋敷にお出入りさきをもっていて、町方万歳よりも、格式も上ならば、収入もはるかに安定している。  それにはんして、町人あいての町方万歳は、こじき万歳といわれるくらいで、いわば門付け物請いもおなじこと、収入も不安定である。  ところが、亀丸は、屋敷万歳の太夫から懇望されたのである。それをそでにして、町方万歳の春太夫と契約した理由を、亀丸は武家屋敷は、きゅうくつだからといっているが、それが本音であったろうか。  ひょっとすると、亀丸は江戸の町でだれかを、探しもとめているのではないか。  そういえば、きょうちょっと妙なことがあったが、こんやの外出も、それに関連しているのではないか……。  と、才蔵運のわるい春太夫は、考えこんでいるうち、しだいに不安をつのらせたが、その不安ははたして事実になったらしく、亀丸はとうとう、その晩かえってこなかった。  小町娘ミス江戸   ——小町娘の一枚絵が血にまみれて 「ご免くださいまし。正月そうそう、いやな事件が持ちあがりましたそうで」  と、下谷《したや》長者町の自身番へ、佐七が辰《たつ》と豆六をひきつれて顔をだしたのは、七草のかゆも祝うたつぎの日の、昼過ぎのことだった。 「おや、これはお玉が池の親分、よくきておくんなすった。辰つぁんも豆さんもご苦労さま」 「親分、初春そうそういやだろうが、ひとつよろしく頼みますぜ。なにしろ、みんな肝をつぶして、町中てんやわんやのさわぎです」 「なあに、こちとらはこれが稼業《かぎょう》ですから」 「稼業とはいえ、正月そうそう、むごたらしく殺された仏様の顔をみるのはねえ。だけど、おまえさんにそんなことをいってられちゃ、こっちがかなわない。なるべくはやく埒《らち》をあけてください。おい、だれか親分をご案内しないか」 「おっと、それじゃわたしが、東道役《あるじやく》をひきうけましょう」 「お願いいたします。おっと、忘れてた。みなさん、明けましておめでとうございます」 「あっ、ちがいない。おめでとう。なるほど、このさわぎじゃ、御慶をのべるのも忘れてしまう。それじゃ五兵衛さん、頼みます。親分、かえりにおよりください」 「はあ、よらしていただくかもしれません」  自身番には町の大家さんたちが、交替で詰めることになっているが、こんな騒ぎが持ちあがると、好奇心からみんな出てきて、うわさに花が咲くのである。  いまもおおぜい、火ばちにしがみついていたなかから、五兵衛ほか二、三人が立って土間へおりてきた。  佐七はそのあとにつづいて自身番をでると、 「大家さん、殺されたのは……?」 「謡と鼓の師匠をしている、宮部源之丞《みやべげんのじょう》という浪人者なんですがね。いろいろよからぬうわさのあった男なんです。それにしても、殺されかたがちょっと変わっているんで……」 「変わっているというと……?」 「いや、それはじぶんの目でごらんなさい。死骸はそのままにしてありますから」  野次馬のいっぱいたかるかどを曲がると、そこは、いきどまりのふくろ小路になっており、右側は寺の土塀《どべい》、突き当たりが寺の墓地になっているらしく、にょきにょきと、卒塔婆《そとば》のつきだした土塀のうえから、小坊主の顔がのぞいている。  その道の左側には、ちょっと小意気なしもた屋が、二、三軒ならんでいるが、事件のあったのはいちばん奥の家らしく、おもてに、野次馬がいっぱいむらがっている。その野次馬をかきわけると、格子のそばに、 [#ここから2字下げ] 謡曲 鼓 指南 宮部源之丞 [#ここで字下げ終わり]  と、筆太にかいた看板がぶらさがっていた。  格子をあけると、現場につめていた町役人のひとりが顔をだして、 「あっ、お玉が池の親分、ご苦労さま。辰つぁんも、豆さんも、さあ、どうぞ……」  と、招じいれられたのは、こぢんまりとした六畳の座敷、半間の床の間には、細ものの軸がかかっていて、そのまえに、すいせんの花がいけてあるのは、いかにも謡の師匠らしいこのみだが、床の間のまえに寝床がのべてあり、その寝床がひどくみだれているうえに、まくらがふたつころんでいるのは、男と女の奮闘のあとを物語るのだろうか。  しかし、いまその寝床のうえに、あおむけに倒れているのは、男ひとりだけである。  それが宮部源之丞だろう。からすのぬれ羽のような月代《さかやき》がすこしのびていて、色白の、のっぺりとしたよい男振りである。  としは三十前後というところか、さっき五兵衛もいったとおり、たしかにかわった殺されかただった。  源之丞は浴衣のうえに、どてらをかさねていたにちがいない。しかし、そのどてらは寝床のそばにぬぎすてられていて、いま粗い模様の浴衣だけなのだが、その浴衣に、帯もしめてなくて帯ひろはだか、しかも、ふんどしもしめていないので、あさましい下半身がむき出しである。  顔ににあわぬ毛ぶかい男で、へそから下腹部へかけて、くまのような巻き毛が密生している。  源之丞がしめていたのであろうふんどしは、源之丞の両腕を、うしろ手にしばりあげるのに使われていた。そして、どてらのうえからしめていたにちがいない細い繻子《しゅす》の伊達巻《だてま》きを、ふんどしの結びめにとおして、源之丞のからだを床柱にゆわえつけてあった。  下手人はこうして、源之丞の抵抗を封じておいて、さて、あらためておもむろに、えぐったものであろうか。源之丞の左の胸には、柄《つか》をもとおれとわき差しがぐさっと突っ立っているのだが、そのわき差しには、妙なものがつきさしてある。  それは浮世絵であった。  血でぐっしょりと染まっているので、図柄ははっきりわからなかったが、美人の大首のようである。 「こ、これは……」  と、佐七がおもわず辰や豆六と顔見合わせると、そばから五兵衛が顔をしかめて、 「黒門町の生薬屋、茗荷屋《みょうがや》の娘、お美乃《みの》さんの似顔絵ですよ。ほら、暮れに歌川の師匠にかかれて、一枚絵として売り出され、いまだいひょうばんの小町娘……」  江戸時代には、浮世絵師がとくいの彩管をふるって、美人画を版にするとき、実在の美人の似顔をかくことがおおかった。  浮世絵師にかかれる美人には、玄人がおおかったが、まれには素人の娘のばあいもあった。  玄人にしろ、素人にしろ、一流の浮世絵師にかかれるということは、女としてはこのうえもない名誉で、茗荷屋の娘、お美乃なども、いまのことばでいえば、さしずめ、ミス江戸というところで、当時、だいひょうばんの小町娘だった。 「しかし、だんな、茗荷屋の娘の似顔が、なんだって刀の柄に……?」  と、きんちゃくの辰は目をまるくする。 「さあ、それはあたしどもにはわからない。そこをあらいあげていくのが、親分やおまえさんがたの腕前で……ただ、いっておくが、宮部さんの妹のお国さんというのが、茗荷屋の商売がたき、おなじく黒門町の生薬屋、鍵屋《かぎや》のだんなのせわになって、池の端にかこわれているんです」 「えっ?」 「それからもうひとつ、そこに突ったっているわき差しは、宮部さんのものだそうで」  この柄のまきかたには特徴があるから、ばあやをはじめ近所のものも、はっきりそれをみとめていると、五兵衛はそのあとへ付けくわえた。 「それで、宮部さんには奥さんは……?」 「いや、それがひとりなんです。去年の春ごろ、妹のお国さんとふたりここへ住みついて、謡や鼓の指南をはじめたんですが、謡も鼓も、かなりじょうずだといいううわさです。しかも、謡や鼓よりも、もっとじょうずなのが口弁で、それでだんながたのあいだに、よいお弟子ができました。そのうちにお国さんのきりょうに目がとまったのが鍵屋のだんなで、とうとう、めかけにして池の端にかこった。そこで、身のまわりのせわをするものがなければ不自由だろうからというので、鍵屋のだんながおせわなすったのが、お紋というばあやで、お国さんがいなくなってからは、色気のないばあやとふたり暮らし。だから、下谷かいわいの亭主野郎、ことにちょっと渋皮のむけた女房をもっている亭主はみんな、ヤキモキしていたもんでさあ。なにしろ、この男振りのうえに、口弁のいいひとでしたからねえ。あっはっは」  と、五兵衛は厄払《やくばら》いでもしたように笑った。  万歳の太夫ひとり   ——死体の下から花かんざしが  その亭主野郎たちは、いまこの源之丞の死にざまをみると、さぞや快哉《かいさい》をさけぶことだろう。  源之丞は帯とけすがたなので、はだかもどうようの姿である。  両腕をうしろにしばられているので、そのもがきかたもふしぜんだったらしく、ふんばった両脚のかっこうが、なんともいえずあさましい。  おまけに、えぐられるときの恐怖のために、顔がおそろしくひんまがり、目玉がいまにもとびだしそう、くわっとひらいた口からは、くろずんだ舌がだらりとたれて、色男台なしというていたらくだ。 「それにしても、だんな」  と、またきんちゃくの辰が口をとんがらせた。 「このひとはひとりもんだというのに、なぜまくらがふたつ出ているんです。まさか、ばあやといっしょに寝るんじゃありますまい」 「だから、辰つぁん、亭主野郎がヤキモキするのさ。それに、ばあやのお紋は、ゆうべ留守だったんだよ。けさかえってきて、この死骸をみつけ、びっくり仰天というしまつさ」 「それじゃ、だんな、そのばあやをここへ……いや、なんぼなんでも、この死骸のそばじゃまずいな」 「それじゃ、茶の間へおいでなさい。むこうにばあやがいるはずだから」 「じゃ、そうしましょう。辰、豆六、おまえたちは家のまわりを調べてみろ」 「おっと、がてんだ」  佐七が茶の間へはいっていくと、ばあやのお紋が町役人にまもられて、しょんぼり肩をすぼめていた。そのお紋が、おどおどしながら語るところによると、こうである。  お紋にはお吉という娘がひとりあって、深川の大工のもとに片付いている。  お紋は月に五、六回、主人のゆるしをえて、娘のところへ泊まりにいく。  お紋のくちぶりから察すると、ときどき、お紋がいては源之丞につごうのわるい晩があるらしく、ゆうべもそうらしく思われた。  さて、けさの四つ(十時)ごろかえってくると、表の格子にしまりがしてなかった。しかし、お紋は源之丞がすでに起きているのだろうと、べつにふしぎにも思わずに、おくの六畳へあいさつにいくとあのしまつで…… 「そのときのわたしのおどろき、どうぞ、親分、お察しくださいまし」  お紋はそそけた銀髪をふるわせて、泣き出した。 「そりゃむりもねえが。それで、雨戸やなんかは……? べつに異常はなかったかえ」 「はい、いまあるとおりで……いちばんに駆けつけてくだすった番太郎さんが、現場に手をつけちゃいけないとおっしゃったので……」  佐七のみたところでは、雨戸は全部しまっており、なかからちゃんと、締まりがしてあった。 「それで、お紋さん、おまえがみて、なにか妙だと思うようなことに、気がつかなかったかえ。ゆうべからけさへかけて……」 「はい、そうおっしゃれば、ちょっと、妙だと思うようなことがございました。そのときは、たいして気にもとめませんでしたが……」 「それはどういう……?」  と、佐七の目がきらっと光る。 「はい、けさこの家へかえってまいりますとき、そこのまがり角で、三河万歳にぶつかりました。万歳はとてもあわてふためいたようすで、あいさつもそこそこに、いってしまったのでございます。そのときはべつにそれほど気にもとめませんでしたが、だんだん、気がおちついてくるにつれて、思いだしたのでございますが、あの万歳は、きのうこのうちへきた万歳と、おなじひとじゃなかったかと……」 「きのうも、万歳がきたのかえ」 「はい、おひる過ぎ、三河万歳がとびこんでまいりまして、いくらことわってもかえりません。そこで、だんなが奥からちょっと顔を出して、うるさいからこれをやっておかえしと、お鳥目をほうってくださいました。そのときの万歳の太夫と、けさぶつかった三河万歳と、なんだか、おなじひとのような気がして……」 「いったい、どんな男だったえ」  と、佐七はひざをのりだした。 「はい、五十くらいのでっぷり太った、いかにも酒好きらしい、鼻の頭のあかくなった……そうそう、左の目じりに、大きなほくろがございました」 「そして、才蔵のほうは……?」 「ところが、けさは才蔵はいなかったんです。万歳の太夫さんだけでございました」  佐七が辰と豆六を呼びこもうとしているとき、表のほうがにわかにがやがや、騒がしくなったかとおもうと、番太郎が顔をだして、 「鍵屋のだんなと、お国さんがおみえになりましたが……」 「ああ、そう、それじゃこちらへ通しねえ。なんぼなんでも、いきなり死骸にぶっつけちゃ、女だけにかわいそうだ」 「承知しました」  番太郎がひきさがるのといれちがいに、鍵屋のだんなの治兵衛《じへえ》と、めかけのお国がはいってきたが、なるほど、お国はとなりの部屋で殺されている源之丞によく似ている。  色白でうりざね顔の、目のパッチリとした、すらりとすがたのよい女である。  としは二十四、五だろう。 「いや、どうもおそくなりました。お国をさがしていたものですから」  治兵衛はさすがに、大店《おおだな》のだんなの貫禄《かんろく》十分で、こんなさいにも、ゆったりとした態度である。  としは四十二、三だろうが、がっちりとした、いい男振りである。 「お国さんをさがしていらしたとは?」  佐七はあいさつをしたあとで、ちょっと疑わしそうな目をむけると、 「いや、このご町内から、宮部さんのことを知らせてくだすったので、さっそく、店のものを池の端へやったんです。ところが、お国もゆうべ出たきりかえらないという。そこで、こっちのほうも、もしや……と、ぎょっとしていると、やっとさきほど、ひょっこりかえってきたんです。話をきくと、やはり池の端にかこわれているお駒《こま》さんといって、これと仲よしのところへいって、双六《すごろく》やなんかしているうちにおそくなったので、とうとう、そこへ泊まってしまったのだと、たわいのない話で……」  お国はしょんぼりうなだれて、 「ゆうべだんなはご親戚《しんせき》のおあつまりがあって、池の端へはこれないというお話でしたので、お駒さんのところへ遊びにいったんです。すると、ほかにも遊びにきているひとがあり、いい気になって、遊びほうけていたんですが、そのあいだに兄さんが、とんだことになったとやら……」  泣くにも泣けぬというふうに、目をとがらせていたお国は、はじめてほろりと涙をおとした。 「いや、さぞお驚きでございましょう。ときに、仏におあいになりますか」 「はい、ひとめなりとも」  お国の声は蚊が鳴くようだ。 「それじゃ……」  と、佐七が案内すると、治兵衛は音をたてて、大きく息をうちへすい、お国は、 「まあ、ひどいことを!」  と、くやしそうに口走ったが、さすがに兄妹《きょうだい》として、このあさましいすがたを見るにしのびなかったのか、兄の顔から目をそらしながら、いそいで死骸のすそをなおそうとしたが、すると、着物のしたから出てきたのは、なんと、一本の花かんざし。  一同はそれをみると、おもわず大きく目をみはった。  あわや落花|狼藉《ろうぜき》   ——台所からとびこんできた男 「親分、三河万歳の太夫ですね」 「そうだ、五十くらいの年輩で、左の目じりに大きなほくろがあり、鼻の頭が酒であかくなっている。でっぷりふとった男だそうだ」 「ついでに、親分、才蔵の人相はどうだんねん」 「いや、ところが、お紋も、才蔵のほうはおぼえていない。それに、けさ出会ったのは、太夫だけだったそうだ」 「ようがす。江戸に三河万歳が、何人きてるか知りませんが、それだけはっきり人相がわかってりゃ、捜すのもむつかしかアありますめえ。それで、親分は……?」 「おれはちょっと寄るところがある」 「ああ、さよか。ほんなら、兄い、万歳の太夫をさがしにいきまほ」 「よし、来い」  長者町から黒門町までは、目と鼻のあいだである。  辰や豆六とわかれた佐七は、いまあってきた鍵屋の商売がたき、茗荷屋《みょうがや》のおもてへやってきた。  鍵屋と茗荷屋は、みちひとつへだてた筋向いにあり、数代まえから商売がたきとして、しのぎをけずってきたばかりか、いまの主人の治兵衛と勘右衛門《かんえもん》は、犬猿《けんえん》のあいだがらというひょうばんがある。  その鍵屋の主人のめかけの兄が、殺されている現場に、商売がたきの茗荷屋の娘の似顔絵があるというだけでも、いささかみょうな取りあわせというべきだのに、その似顔絵が凶器でぐさりと突き刺されているというのだから、これには、よほど、ふかい子細がなければならぬ。 「ごめんくださいまし。ご主人はおうちに、おいででございましょうか。もしおいででしたら、お目にかかりたいんですが……へえ、あっしは、お玉が池の佐七というもんで……」  できるだけ、腰をひくくして申し入れると、番頭が顔色かえておくへひっこんだが、しばらくすると、また出てきて、 「どういう御用か存じませんが、お目にかかると申しております。どうぞ、横のほうへおまわりくださいまし。長松、ご案内を……」 「へえい」  長松に案内されて、内玄関からおくへとおると、勘右衛門が不安そうに、座敷で待っていた。 「おはつにお目にかかります。わたしがあるじの勘右衛門だが、どういう御用で……」  勘右衛門はおそらく治兵衛より五つ六つ年長だろう。治兵衛とちがってやせぎすで、癇性《かんしょう》らしいところもあるが、これまた、老舗《しにせ》のだんならしい風格は、治兵衛におとらなかった。 「はあ、そのことを申し上げますまえに、ちょっとお尋ねいたしますが、ひょっとすると、この花かんざしは、ご当家のお嬢さま、お美乃さんのものではございますまいか」  佐七がふところから、花かんざしを出してみせると、勘右衛門はぎょっと目をみはって、 「男のわたくしにはよくわからんが、それが娘のものだとしたら……」 「いや、そのまえにちょっと、たしかめていただきたいのでございますが……」 「お美乃はゆうべから、熱をだして寝ているんだが……」  そういいながらも、手をならして女中をよぶと、 「親分、ちょっとそのかんざしを……お梅、このかんざしを離れへもっていって、お美乃のものかどうかきいてきておくれ」 「はい……」  女中はその花かんざしを持って出ていったが、しばらくするとかえってきて、 「あの、お美乃さまのおっしゃるのに、お玉が池の親分さんが来ていらっしゃるなら、ぜひ、聞いていただきたいことがあるから、恐れいりますが離れのほうへと……だんなさまもごいっしょに……」 「ああ、そう。それでは、親分、取りちらかしてはおりますが……」 「承知しました」  勘右衛門の案内で、佐七が離れへはいっていくと、お美乃は長襦袢《ながじゅばん》のうえに掻《か》い巻《ま》きを羽織って、寝床のうえに起きていた。  なるほど、いまだいひょうばんの小町娘だけあって、目がさめるばかりのあでやかさ、としは十七だという。  お美乃のそばに、不安そうな顔をして、つきそっているふたりの女を、家内のお松に、乳母のお袖《そで》であると、勘右衛門が紹介した。 「親分さん」  と、お美乃は、きらきら、うるむような目を、佐七にむけて、 「このかんざしは、たしかにあたしのものですが、ここにちょっと、血のようなものがついております。もしや、宮部さんに、なにかまちがいでも……?」  佐七はその美しい目を、じっとみかえし、 「お美乃さん、あなたのほうから、そう切り出していただければ話がしやすい。宮部源之丞さんは殺されましたよ」  ひえッ! というような悲鳴をふたりの女と、勘右衛門が同時にあげた。 「親分、その宮部源之丞というのは、いったいだれです。お美乃となんの関係があるんです」 「宮部源之丞というのは、鍵屋のだんなのおめかけさんの兄さんで、ゆうべ、だれかに殺されたんです。そして、その死骸のしたに、この花かんざしが落ちておりました」  お松とお袖は、ふたたびおびえたような悲鳴をあげた。勘右衛門はかみつきそうな声で、 「お美乃!」 「まあ、まあ、だんな、お美乃さんはかくごをきめて、なにもかも、お話しなさるつもりなんです。さあ、みんなで話をきかせてもらいましょう」  お美乃は長襦袢のたもとを目にあてて、泣きじゃくっていたが、やがて、決心したようにすずしい目をあげて、語るところによるとこうである。  お美乃はゆうべ、源之丞に呼びよせられて、長者町のうちへ忍んでいったが、すると、源之丞が思いもよらず、じぶんのいうことをきけといどんできた。  お美乃がこばむと、いうことをきかぬとこのとおりだと、そこにあったお美乃の一枚絵を、ぷっつり刀で突きとおした。 「あっ、それじゃあの一枚絵を、刀で突きとおしたのは源之丞だったんですね」 「はい」  お美乃はあまりの恐ろしさに、気がとおくなりそうだった。  すると、源之丞が浴衣一枚の帯もとき、ふんどしまでかなぐりすてて、おどりかかってきたかとおもうと、お美乃を布団のうえにおしたおした。お美乃はもう、抵抗するすべも知らなかったが、そのときとつぜん、台所のほうから、とび出してきたひとりの男が、源之丞におどりかかって、そこに、猛烈なつかみあいがはじまった。  お美乃清十郎   ——亀丸、おまえゆうべどこにいた 「そ、それじゃ、お美乃、おまえは助かったんだね。けがされずにすんだんだね」  と、母のお松が泣いている。 「はい、そのおかたが助けてくださいました。もし、そのかたがいらっしゃらなければ、いまじぶん、あたしは生きてはおりません」 「うむ、うむ、それで……」  勘右衛門も涙をふきながらひざをのりだす。  源之丞とその男は、しばらくうえになり、したになり、格闘をしていたが、どうしたはずみか、源之丞がううむとうめいて気を失った。すると、男はなにおもったのか、源之丞のふんどしでうしろ手にしばりあげたが、そのときはじめて、そこにいるお美乃に気がつくと、 「あっ、お嬢さん、あんたまだいなすったのか。こんなところに長居は無用だ。はやくおかえりなさい」  と、すすめてくれたので、お美乃はやっと気がついた。それでも、こわごわ、源之丞をどうするつもりかと尋ねると、男はくらい笑みをうかべて、 「なあに、殺しゃしません。呼びつけて、ちょっと尋ねることがあるんです」  と、いう答えであった。  そこで、お美乃はその男に礼をのべて、いそいでそこをとび出したのだが、源之丞に押したおされたとき、花かんざしがおちたのだろうが、うちへかえるまで気がつかなかった。 「なるほど、それでお美乃さん、その男というのは、どんな風体をしておりました」 「はい、身なりやことばつきからして、江戸のひとではないようでした」 「あっ、それじゃ、ひょっとすると五十くらいの、左の目じりにほくろのある……?」 「いいえ、それはちがいます。としは三十五、六でしょうか。ことばのなまりからして、上総《かずさ》か、下総《しもうさ》のひとではないかと思いましたが……」  才蔵なのだ! と、佐七は心のなかでさけんだ。 「ふむ、ふむ。それで、ふたりは、なにかいいあいをしてましたか」 「いいえ、ただ、畜生とか、この野郎とか……そのうちに宮部さんが、気をうしなってしまったものでございますから……」  と、語りおわると、お美乃はたもとに顔をおしあてて、またむせび泣きながら、 「親分さん、そのひとはけっして、宮部さんを殺しはしないと申しました。しかし、なにかのはずみに手をかけたとしても、それにはそれでわけのあること、どうぞ罪を軽くしてあげてくださいまし」 「お美乃や」  と、母のお松はおろおろ声でひざをのりだし、 「それにしても、おまえはなんだって、そんなおそろしいひとのところへ、呼びよせられたんだえ。おまえはなにか、宮部さんというひとに、うしろ暗いところでも……」 「お父さん、お母さん、許してください。宮部さんは、あたしのかくしごとを知っていたんです」 「お、お美乃! おまえのかくしごととは……?」  勘右衛門もおろおろ声をふるわせる。 「お父さん、かんにんして……鍵屋さんの若だんな、清十郎さまとの仲を……宮部さんがとりもって……」  わっと泣きくずれるお美乃のえり脚を、佐七は世にもうつくしいものにみた。 「あっはっは、これはおどろきました。かくしごととおっしゃるから、どんな恐ろしいことかと思いましたに……それで、お美乃さんは、その若だんながいとしいんでございますね」 「はい」 「御乳母《おんば》さん、清十郎さんというのは、どういう……?」 「はい、それはとても、けっこうな若だんなではございますけれど……」  乳母のお袖は、勘右衛門やお松に気をかねながらも、ほっとしたように涙をふいている。 「あっはっは、そりゃまあ、おめでたいことで……お美乃さん、打ち明けにくいことを、よくまあ打ち明けてくださいました。これで、佐七もよけいな手間がはぶけます。もし、だんな」 「はい」 「これでお美乃さんはこんどの人殺しに、なんの関係もないことがわかりました。あっしの口からは、だれにも申しませんから、どうぞそのおつもりで。いや、どうもおじゃまいたしました」  花かんざしをその場において、佐七がつと立ち上がると、勘右衛門とふたりの女は、はっとその場に両手をついた。  それからまもなく、佐七がお玉が池へかえってくると、町角に豆六がぼんやり立っている。 「おや、豆六、おまえ、そんなところでなにしてるんだ」 「あ、親分、あんたを待ってましたんや。じつはお目当ての三河万歳がわかったんだす。春太夫ちゅうて、馬喰町《ばくろちょう》の三河屋にいるやつが、それらしいんです」 「それで、春太夫をつれてきたのか」 「いや、ところが、春太夫は朝出たきり、まだかえってきてえしまへん。ところが、ええあんばいに、相棒の才蔵がぼんやり春太夫を待ってましたさかいに、つれてきました」 「なに、相棒の才蔵がつかまったのか」  佐七はきらりと目をひからせる。 「へえ、だけど、まだゆうべの人殺しのことやなんか、いうてえしまへんさかいに、どうぞそのおつもりで。それをひとこと、いうとかんならん思てここに待ってましてん」 「じゃ、才蔵はうちにいるんだな」 「へえ、兄いと話をしています。亀丸ちゅう名前で、我孫子《あびこ》のもんやいうてました」 「よし!」  佐七が胸おどらせてかえってくると、亀丸は才蔵姿で、鼓をかたえにひかえながら、いくらか不安そうな面持ちだったが、しかし、とてもゆうべ人殺しをした人間とはおもえなかった。 「おまえが、亀丸さんという才蔵かえ」 「はい、親分、太夫さんがどうかしたんでしょうか」  と、そういうことばにも、あきらかに総州なまりがあり、としかっこうも、三十五、六、お美乃の話に符合しているが、どこかあか抜けしていて百姓とはみえない。 「いや、太夫より用事があるのはおまえのほうだ。亀丸さん、おまえゆうべどこにいた?」  亀丸ははっとしたように顔色をかえると、 「どこにいたとおっしゃるのは……?」 「亀丸さん、おまえゆうべ、宮部源之丞という浪人者が、両手をしばりあげられたまま、刀で突き殺されたのを知っているか」  そのとたん、亀丸は真っ青になって、びくりとからだをふるわせた。  鶴吉涙の約束   ——かれは終生約束を破らなかった 「お、親分!」  肩で息をしながら、目をいからせて、しばらく、佐七の顔をにらんでいた亀丸は、とつぜん、 「そ、そ、そりゃほんとうでございますか!」  と、絶叫するような調子だったが、その声や態度にも、芝居があろうとはおもえなかった。  辰と豆六は、このおもいがけない事件の展開に、目をきょときょとさせている。 「うそはいわない。ひとつ、おまえの話をきこうじゃないか。源之丞をしばりあげてからどうした。ぐさりとやったのか」 「ち、ちがいます! ちがいます!」  と、また絶叫するようにさけんだが、 「ああ、あのお嬢さんから、お話をおききになったんですね。親分、それじゃ、なにもかもお話しいたします。どうぞ、ひととおり聞いてください」  亀丸の話によるとこうである。  かれは我孫子のものではなく、下総の古河のうまれで、名前は鶴吉《つるきち》といった。  生家は亀屋といって、そうとう大きな料理屋で、むろん妻もあれば子もあった。  ところが、三年ほどまえ、すぐ近所へ、宮川源十郎という浪人者と、妹のお才というのが流れてきて住みついた。  源十郎は謡と鼓の指南をはじめたが、料理屋の若だんなにうまれて、芸事のすきな鶴吉は、まもなく弟子入りをして、けいこをしているうちに、妹のお才とねんごろになった。  そこでめかけにと懇望すると、とつぜん源十郎がいたけだかになった。 「浪人するといえども武士の妹、町人のぶんざいでめかけにとはなにごとだ。本妻ならば許しもしようが、もしそれがかなわぬときには、兄の目をしのんで、妻ある男とちちくりおうたにっくい妹、そのままではすまぬとおもえ」  と、刀を引きよせてすごんでみせた。  女に迷うているときにはしかたがないもので、そういう源十郎の態度が、いかにも潔癖らしくみえた。  さすがは、やせても枯れてもお武家さまだと、鶴吉はことごとく敬服した。  そこで、あいてが要求するままに、親類の反対もおしきって妻を離別し、お才を亀屋へひきいれた。  妻は子どもをつれて出ていった。  こうして、お才をやどの女房にしたについて、兄の源十郎に、月々、いくらかの仕送りをしようと申しでたが、源十郎はキッパリ、それをはねつけてうけつけなかった。そして、いぜんとして謡と鼓の指南をしながら、清貧にあまんじていた。お才も妻としてよくつかえた。  鶴吉はいよいよお才にほれこみ、源十郎を敬愛した。  ところが、一年ほどたって一昨年の秋、鶴吉がなかまの義理で足利《あしかが》へおもむき、三日ほどとまってかえってみると、お才はいなかった。  源十郎も逐電していた。  お才をすっかり信用していた鶴吉は、土蔵のかぎから、なにからなにまで、いっさいまかせておいたが、よくもこれだけ持ち出せたものだとおもうほど、家のなかはからっぽになっていた。  よほどまえから、計画的に持ち出していたらしい。  むろん、金子はのこらず持ち逃げしたうえ、ごていねいにも、うちまで抵当にはいっていた。 「そのときのわたしのくやしさ、無念さ……さいわい、家内の里が、そうとうに暮らしておりますので、これに目がさめてよりをもどすなら、なんとか面倒をみてやろうといってくれますが、それではわたしの胸がおさまりません。なんとか返報をしたうえでと、去年の春ごろ、江戸へふたりをさがしにきました。ふたりが以前、江戸にいたことをきいておりましたので……それいらい、脚をすりこぎにして、江戸の町々をさがしまわっておりましたが、ついぞふたりにあいません。そのうちにふところもさびしくなる。そこで、おもいついたのがこの才蔵。万歳ならば、どこのうちへでも入りこめます。そこで、春太夫さんにお願いして、才蔵にしていただきました。じぶんでいままでやったことはありませんが、近所のものがけいこをするので、しぜんわたしも、まねごとくらいはできるんです。この衣装は貸し衣装屋から借り受けました」  こうして、鶴吉の苦労のかいあって、とうとうきのう、かれは宮部源之丞と変名しているにくい男の住居をつきとめた。  さいわい、そのとき源之丞のほうでは、鶴吉に気がつかなかったらしいので、ゆうべ、忍んでいくと、家のなかにだれもおらず、しかも格子があいていたので、台所へしのんでいると、まもなく源之丞が、お美乃をともなってかえってきたのである。  そのあとは、お美乃の話したとおりだが、鶴吉はお美乃をかえすと、そのあとで源之丞を呼びいれた。  かれの憎いのは男より女である。  そこでお才、すなわちお国の居所を責め問うたところ、源十郎の源之丞は案外意気地なしで、べらべらと、お国のいどころをしゃべってしまった。  そこで、鶴吉はそこをとび出し、池の端へいったのである。 「源之丞をしばったままか」 「はい、いましめをといて、先まわりをされても困りますし、うそだったらまた引き返して、責め問わねばなりません」  そこで、源之丞をしばったふんどしの結びめに、繻子《しゅす》の伊達《だて》巻きをとおし、床柱にしばりつけていったのである。  源之丞の話はうそではなかった。  お才のお国は、たしかに教えられたところに住んでいたが、あいにくうちにいなかった。  かれは夜中、妾宅《しょうたく》の近所に張っていたが、夜が明けてもかえらないので、あきらめて宿へかえると、春太夫がいず、兄さんがたがやってきたのであると話をむすんだ。 「それで、おまえは、女をどうする気だったんだ。殺すつもりだったのか」 「いえ、殺すほどの、ひどいことをするつもりはございませんでした。あのうつくしい顔にきずをつけて、二度と男をだませないようにしてやろうとおもったんです。ところが、親分」  鶴吉はそこでひざをのりだすと、異様に目を光らせて、 「あのふたりはあんなに似ておりますから、みんなだまされるんですが、ひょっとすると、兄妹ではないんじゃないかと思うんです。というのは、うちへ入れるまえ、ふたりで寝ていたんじゃないかとおもわれるような場面に、ぶつかったことがあるんです。そのときは、妹が癪《しゃく》をおこしたので、介抱しておったといわれて、それをうのみに信用していたんですが、あとになってみると、いろいろおかしなことが……」  佐七はだまって考えていたが、とつぜん、きらりと目を光らせると、 「辰、豆六、ひとまずお国をあげておけ。ただし、ていねいにあつかうんだぞ。それから、鶴吉、おまえもこれでかえれると思っていると間違いだぞ」 「恐れ入りました」  鶴吉はわるびれずに手をつかえた。  佐七の処置はまことに適切だった。  もう一日おくれていたら、お国は高飛びしていたかもしれない。  お国もはじめは知らぬ存ぜぬと、シラをきっていたが、そのつぎの日、万歳の春太夫が出現するにおよんで、彼女もとうとうどろをはいた。  春太夫は亀丸のことを心配して、きのう亀丸がみょうなそぶりをみせた源之丞のところへ翌朝しのんでいって、そこに殺されている源之丞の死体を発見した。  そのとき、春太夫は妙なことに気がついた。源之丞の口に、赤い絹のきれはしがおしこんであった。  おそらく、下手人が男が刺すとき、声をたてるのをおそれて、むりやりに、口にねじこんだのだろうが、鶴吉がそんなものを持っているはずがなかった。  春太夫は後日の証拠にと、その絹のきれはしを抜きとってかえったのだが、それは、お国のしごきのきれはしだった。  お国は鶴吉とほとんど入れちがいに源之丞のところへしのんでいった。  そして、源之丞のいましめをとくまえに、いっさいの話をきいた。  すると、お国はじぶんのしごきのはしを切り、それを源之丞の口に押しこんでおいて、そこにころんでいた刀で、ぐさりとひと突き。  お国はもちろんそのきれはしも、死体の口から抜きとろうとしたのだが、かみしめた男の口から抜きとるのは容易なことではなかった。それに、鶴吉がいつ引きかえしてくるかと思えば怖かった。  そこで、そのまま逃げだしたのが運のつきだった。お国はそれをお美乃のものだといいくるめるつもりだったという。  お国と源之丞は兄妹ではなかった。  いとこであったが、顔が似ているところから兄弟といつわり、いたるところで、悪事をはたらいていたのである。  この事件が縁になって、鍵屋と茗荷屋のあいだには、たえてひさしい確執がとけて、お美乃がまもなく清十郎のもとへ嫁入ったのは、まことにめでたい結末といわねばならぬ。 「それにしても、親分」  と、ずっとあとになって、辰が聞いたことがある。 「お国はなんだって、源之丞を殺す気になったんでしょうね」 「そら、兄い、わかってまっしゃないか」  と、豆六がしたり顔で、 「あないなあさましいすがたをみたら、だれかて愛想がつきまっしゃないか。それに、あのけったいななりを見たら、だれか女と寝ていたか、それとも口説いていたかちゅうことが、一目|瞭然《りょうぜん》だっさかいにな」 「それもある」  と、佐七はすなおにうなずいて、 「あのあさましすがたに、お国が愛想をつかした、というのはうなずける。しかし、ただそれだけじゃあるめえよ」 「と、おっしゃいますと……?」 「お国は鍵屋のだんなにほれていたんだ。鍵屋のだんなはあのとおり、ゆったりとしたお人柄。からだもがっちりしているし、男振りだってわるかあねえ。お国くらいの年ごろになると、のっぺりとしたなまわかい男より、ああいう貫禄《かんろく》十分の男にほれるんじゃねえか」 「そうだ、そうだ、それで、源之丞が、じゃまになってきたんですね」 「そやそや、そういえば、親分、お国はお白州でも、でけるだけ鍵屋の名まえを出さんようにしてましたなあ」 「だから、哀れといえばあわれだが、身勝手といえば身勝手な話だ」  と、佐七は暗然たるくちぶりだった。  鶴吉が春太夫に、泣いて感謝したことはいうまでもない。  かれは才蔵などする身分ではなかったが、のこりの正月を、春太夫の才蔵をつとめたのみならず、わかれるとき、今後まいとし正月には、かならず出府いたしますから、どうぞ太夫さんのおあいてをつとめさせてくださいと、泣いて約束していった。  そして、春太夫が老境にはいって、三河万歳をやめるまで、鶴吉はこの約束をまもって、破らなかったという。     蝶合戦  向島異変|胡蝶《こちょう》合戦   ——豆六がお株をはじめやがった 「親分、お聞きになりましたか」  と、しかつめらしく、ひざ小僧をそろえた辰をみて、佐七はにやにや笑いながら、 「なんだえ、辰、あらたまって。どこかの七十のばあさんが、三つ子でもうんだか」 「親分、そんなんじゃありませんよ。ほら、向島の蝶《ちょう》合戦でさ」 「そうそう、その話ならおれもきいた。蝶合戦も蝶合戦だが、それを見物する客のために、向島はたいへんなにぎわいだってえじゃないか」 「それですよ、親分。ほんとをいうと、桜も散って、向島もそろそろ季節はずれになるじぶんだのに、そこへこの蝶合戦がおっぱじまったもんだから、見物がわいわいいって押しかける。それを当てこんで煮売り屋がでる。田楽茶屋が店をひらく。居合い抜きがひとをあつめる。辻《つじ》講釈が張り扇をたたく。おまけに、ちかごろじゃ、なにをどうまちがえたのか、蝶のやつめ、夜になってもとち狂うもんだから、その見物をあてこんで、夜鷹《よたか》までが大繁盛、いや神武以来ない図だと、たいへんな騒ぎだそうですよ」 「珍しいこともあるもんだな。しかし、それがどうした」  と、佐七がいやにすましているから、こんどは豆六がじれったそうに、ひざをすすめて、 「親分、珍しいの、なんのという段やおまへんがな。わてがつらつら按《あん》ずるにやな、漢の霊帝の御代《みよ》、洛陽《らくよう》のほとりに、ぎょうさんかえるがあつまりよって、夜なよなかえる合戦をおっぱじめたことがおます。ときにひとこれを見て、天下大乱の兆しやないかと心配してたところが、はたせるかな、黄巾《こうきん》の乱が起こって天下麻のごとく乱れ、世は三国に分裂したちゅう話や。そういうところから考えると、ひょっとすると、こら、ひょっとやな」 「ちっ、また、豆六がお株をはじめやアがった」 「あっはっは、豆六、おまえはあいかわらず物知りだな。しかし、そんなことはむやみにいわねえほうがいい。うっかりお上の耳にはいってみろ。流言|蜚語罪《ひござい》で告発されるぜ」  そんなことはいやアしないが、 「それで、辰、豆六、どうしようというんだ」 「だからさ、ちょっとこれから、いってみようじゃありませんか。なにも後学のためでさ。きょうあたり天気もいいし、きっとすばらしい蝶合戦が見られるにちがいありませんぜ」 「そや、そや、それからかえりにどこかでいっぱい。へえ、親分、ありがとうござい」 「おっほっほ、辰つぁんも、豆さんもいい気なもんだね。なにが後学のためだよ。お目当ては、かえりにいっぱいというところだろ」  そばからお粂《くめ》がからかえば、佐七も笑って、 「あっはっは、まあ、いい、おれも蝶合戦のうわさはきいていた。いちど出かけてみようと思っていたところだ。お粂、支度をしてくれ」 「おっと、しめた」 「辰つぁんも、豆さんも、かえりにいっぱいまではいいけれど、それからあとはいけないよ。親分をへんなところへ案内すると、承知しないから」 「あねさん、大丈夫ですよ。晩にはきっとかえります」  辰と豆六の作戦みごと図にあたって、とうとう佐七をひっぱり出したのは、もう桜の花ものこりなく散った晩春の昼下がり。  そこは仲のよい親分子分で、口ではなんのかんのいっても、寒くなく、暑くないこの陽気を、三人そろって御用も忘れ、のんびりと出かけるのが、無性にうれしいのである。  それもそうだろう。岡《おか》っ引《ぴ》きがのんびりと、物見遊山に出掛けるようじゃ、まことに天下泰平で、お粂もそれをしっているから、苦情もいわずに出してやったというわけである。  それにしても、向島の蝶合戦というのは、けっして辰や豆六の誇張ではなく、当時、江戸でも大評判だった。  それは桜も散った木の芽立ちどき、どういう天界異変のせいか、向島の木母寺のほとりに、世にもめずらしい蝶合戦が、十日あまりもつづいて、江戸っ子をあっとおどろかせたのである。  毎日昼過ぎになると、どこからともなく、黄蝶と白蝶の大軍がおしよせてきて、木母寺付近の菜の花畑の上空で、はなばなしい蝶合戦をおっぱじめるのだが、いや、そのいきおいのすさまじいことといったらない。  まんじ巴《ともえ》と入れ乱れ、舞いくるい、とち狂う胡蝶《こちょう》の大軍のために、天日もくらく、霏々《ひひ》紛々とまいちる蝶の死屍《しし》は、落花とまごうばかりで、墨堤から河の面を埋めつくしたともいうのだから、話はんぶんにしてもたいへんである。  しかも、それが一日や二日ではなく、十日あまりもつづいたうえに、ちかごろでは蝶のほうでも図に乗ったのか、夜にはいっても、合戦をやめないというのだから、さあ、たまらない。  われもわれもと見物が押しかける。いっぽう、それに付会して、さっき豆六がいったような、あやしいうわさが立ちそめて、江戸中はちょっと、物情騒然といったかっこう。  佐七もこのあいだからうわさをきいて、いちど、出掛けてみたいと思っていたところを、きょう、辰や豆六にけしかけられたのをさいわいに、和泉橋《いずみばし》から舟を仕立てて、向島までやってきたが、きてみるとなるほど、聞きしにまさる異変である。  ちょうど潮時ででもあったのか、佐七が舟からあがってみると、おりから、北と南からおしよせてきた雲霞《うんか》のごとき黄蝶と白蝶の大軍が、梅若塚《うめわかつか》の上空で衝突して、まんじ巴《ともえ》と入りみだれての大合戦。 「やっ、なるほど、こりゃたいへんだ」 「親分、なんだか、気味が悪いじゃありませんか」 「ほんまに、こら、漢の霊帝の御代の、かえる合戦そっくりや」  豆六め、まだやっている。  蝶の大軍は、まるで夏の夕べの蚊柱《かばしら》のように、あるいはたかく天に冲《ちゅう》するかとみると、それがぱっと八方にちり、そのたびにまいおちる蝶の死骸《しがい》が、さながら、あらしのまえに散る花吹雪のよう。  それをまた、見物しようとむらがる野次馬が、土手のうえに満ちあふれて、物売りの声、香具師《やし》のわめき、いやもう、たいへんな騒ぎだが、その雑踏のなかを三人は、もまれもまれて歩いていたが、そのうちに、 「あのもし、ちょっと」  だしぬけに、なまめかしい声で呼びとめて、うしろから、豆六のそでをとらえたものがある。  菜の花狂女   ——美女丸さま、美女丸さまはどこに 「へっ、あの、わてになんかご用だっか」  と、豆六が振りむいてみると、あいてはまだわかい娘である。豆六のそでをとらえたまま、目を異様にうわずらせて、 「おお、あなたはやっぱり美女丸さま、美女丸さまじゃ、美女丸さまじゃ。あなたはまあ、わたしを捨てて、どこに隠れておいでなさいました」  と、胸倉をとらえんばかりのけんまくだから、豆六も面食らった。 「へっ、とんでもない。わてはそんなもんやおまへん。あんた、人違いしてはるのんとちがいまっか」 「あれ、まあ、憎らしい。あんなことをおっしゃって。あなたのような薄情なひとはない。江戸へ着いたら、夫婦《みょうと》の契りをむすぶといいながら、その約束をほごにして、わたしひとりをおきざりに……もし、いったいわたしの父さんを、どこへお連れになりました。わたしはなあ、たったひとり取り残されて、どのように、心細い思いをしたことでございましょう。昼は日ねもす、夜は夜もすがら、泣いてないて、泣きあかし、見てくださいまし。こんな姿になりました」 「な、な、なにをおっしゃる。朝顔日記の深雪《みゆき》やあるまいし、茶番なら、ええかげんにしておくれやす。みんながみて笑ってはりますがな。親分、兄い、そうげらげらわろてんと、なんとかしておくれやす」  豆六はやっきとなって、捕らえられたそでをふり払おうとするが、娘はそれをはなさばこそ、いよいよ宙に目をすえて、 「ええ、もう、憎らしい。末かけて、変わらぬ証拠じゃとおっしゃって、左の腕《かいな》にたがいの名前を、入れぼくろまでしておきながら、夫婦の契りは江戸まで待てとおっしゃるゆえ、それを楽しみに、知らぬ他国のこの江戸まで出てきたものを捨てて逃げ……もし、美女丸さま、こんなにいうても美女丸じゃないといい張って、お逃げになるおつもりかいな。ええい、もうくやしい」  のどっ首にくらいつきそうなけんまくに、 「わっ、助けてえ!」  豆六はだらしなく悲鳴をあげたが、そのとたん、娘は一歩とびのいた。  そして、おこりの落ちたような目の色で、まじまじと、豆六の顔を見つめていたが、きゅうに口もとに手をあてると、 「あれ、おっほっほ、これはとんだそそうをいたしました。ほんに、おまえは美女丸さまじゃない。美女丸さまはおまえのようなうらなり面じゃないわいな」  どっと笑う野次馬を、娘はじろじろ見まわしながら、 「まあ、なによ、なによ、なにがおかしいのよ。ああ、わかった。おまえさんがたが、美女丸さまを隠したのじゃな。後生だから、美女丸さまをここへ出しておくれ。もし、後生だから……ああ、あれ、あれ、美女丸さま、美女丸さま、美女丸さまが胡蝶《こちょう》にのって……おお、蝶が光る。蝶の羽がきらきら光る……」  狂女なのである。  年のころは十七、八、ふるいつきたいほどいい器量だが、これが菜の花を髪にかざし、赤い鹿《か》の子《こ》をひらひらさせながら、踊りくるう蝶合戦のなかにまじって、みずからも踊りくるい、舞いたわむれるありさまは、どこか調子の狂った絵であった。 「ああ、びっくりした。汗びっしょりやがな。親分も兄いも殺生やな。そないにげらげらわろうてばかりいんと、少しはひとの身にもなっておくれやす」 「あっはっは、豆六、てめえがあんまり、鼻の下をながくしているから、あんなのにひっかかるんだ。しかし、親分、あれゃアいったいなんでしょう」 「そうよなア、かわいそうに気が狂っているらしいが、どこの娘だかきいてみろ」 「へえ、あのちょっと、お尋ね申しますが……」  しかし、辰があらためて尋ねるまでもなかった。さっきから狂女と豆六の寸劇を、おもしろそうに見ていた野次馬のなかに、佐七の顔を知っている男があって、 「これはお玉が池の親分、よくおいでなさいました。蝶合戦のご見物ですか」 「ふむ、まあ、そういうわけだが。ときに、いまの娘は、あれゃなんだえ」 「まあ、どこの娘だかしりませんが、ちかごろ気が狂って、毎日のようにここへくるんです」 「なんだか、美女丸という男を探しているようだな」 「へえ、そうなんで。ひとの顔さえみると、美女丸さま、美女丸さまとすがりつくんで、ちかごろじゃ蝶合戦とともに、このかいわいの名物になってるんです」 「美女丸ばかりじゃない。おやじもどこかへいってしまったらしいじゃないか」 「そうなんですよ。美女丸という男がつれだしたきり、ゆくえがわからなくなったらしいんです。もっとも、気ちがいのいうことだから、取りとめはありませんがね」 「そりゃアそうかもしれねえが……それからもうひとつ、変なことをいってたじゃないか。蝶の羽が光るなどと……」 「それなんです。親分、それについちゃ妙な話があるんですがね」  男がしさいらしく声を落としたときである。 「あれ、まあ、美女丸さま」  むこうのほうでまた、はじけるような狂女の声がきこえた。その声に一同がふりかえると、こんど狂女につかまったのは、深編み笠《がさ》の侍である。 「なに、なんと申す」 「おお、美女丸さまじゃ、美女丸さまじゃ、さあ、とうとうつかまえました。こんどこそ、もうはなしはいたしませぬ」 「これこれ、娘、無礼をしちゃいけねえ。こちらはそのようなおかたではないぞ」  横からずいと出てきたのは、深編み笠のお供だろう。あさぎの法被《はっぴ》に焚天帯《ぼんてんおび》をしめ、真鍮巻《しんちゅうま》きの木刀をさした中間である。 「なんじゃ、なんじゃ、おまえは美女丸さまのご家来じゃな。おいてくださいませ。おまえがどんなに目を三角にしたところで、恐れるようなわたしではない。もし、美女丸さま、どうぞその笠とって……」 「おのれ、こいつが、こいつが、いわせておけば無礼なやつ」 「伝内、捨ておけ、すておけ。これ、お女中、そなたは美女丸という男をたずねるか」 「はい、美女丸さまが父さんを、どこかへ連れていったのでございます。そして、父さんがこの近所にいるからは、美女丸さまもこのちかまわりに、いるにちがいございません」 「そなたの父がこの近所にいるとは、どうしてわかった」 「はい、それはあの蝶でございます。あなたはご存じじゃありませんか。蝶々の羽が光るのは、みんな父さんの仕業でございます」 「なに、蝶の羽が光る……?」  深編み笠の侍は、なぜかぎっくりしたようすだったが、すぐこともなげに笑い、 「あっはっは、バカなことを申すな。これ、伝内、早くまいろう。いつまで、気ちがいのあいてをしていても仕方がない」 「あれ、もし、美女丸さま、美女丸さま……」  追いすがる狂女をふりきって、深編み笠の侍は、逃げるように雑踏のなかにまぎれこんだ。  佐七はふしぎそうな顔をして、さっきの男を振りかえり、 「いったい、蝶の羽が光るというのは、どういうことなんで」 「それが妙なんですよ。ときおり蝶の羽に、金の粉がまぶれついていることがあるんです。夜などそれが、あかりのもとを飛んでると、きらきらとほたるみたいに光ることがあるんですよ」  佐七はそれを聞くと、これまた、ぎっくりとしたようすだった。  隅田村《すみだむら》念仏屋敷   ——あれ、あれ、あそこに幽霊蝶が  木母寺から少しはなれた菜の花畑のなかに、一軒のお屋敷がある。  もとはさるご大身のお下屋敷だったのだが、長年、打ち捨てておいてあったのを、ちかごろになって、八重葎《やえむぐら》ひきかなぐり、新しくうつってきた人物がある。  あるじというのは、めったに顔をみせないが、どこかのご後室さまといったふうな、由緒ありげな姥桜《うばざくら》とやら。屋敷の小者をとらえてきくと、名はお鯉《こい》さま。それ以上のことはとんとわからない。  それにしても、このお鯉さま、こころざす仏でもあるのか、屋敷のなかから日がな一日、夜は夜もすがら、きこえてくるのはいんきな鉦《かね》の音。  数珠《じゅず》つまぐって、念仏|三昧《ざんまい》にくらすにはまだ惜しい器量だのに……と、これはいつか、お鯉さまのお輿《こし》の出入りに、ちらと姿をおがんだ近所の兄いのことばである。  さて、その日もくれて、夜のとばりがしだいに色濃くなってくるころ。……闃《げき》としてやみの底に沈んでいる念仏屋敷のなかから、たえまなくきこえてくる鉦の音が、菜の花畑のうえを、いんきにながれていく。  評判にもあるとおり、あのいまわしい蝶合戦は、夜になってもおとろえる気色はなく、おりからの星明りの空に、羽をかわして、まんじ巴《ともえ》とまいくるっていたが、と、このとき……。  ひとひら、ふたひら……鬼火のような光りものが、念仏屋敷のなかから舞いあがって、閃々《せんせん》たる光を放ちながら、おりからの星空へとんでいく。  蝶なのである。  それもひとつやふたつではない。三つ、四つ、五つ、十、二十、しだいに、かずをましていく怪しの蝶は、つぎからつぎへと、念仏屋敷のなかから舞いあがって、踊り狂う蝶合戦のなかにまじっていく。  と……。  これにひかれるように、念仏屋敷のそばへふらふらとちかづいてきたのは、れいの狂女である。  うつつのひとみをみすえて、 「あれあれ、あそこに幽霊蝶が……」  すそをみだして駆けつけていくうちに、むこうからやってきた影にぶつかって、狂女はそこへばったりたおれた。 「ああ、これはそそうを……これ、お女中、どこにもけがは……?」  抱きおこす男の顔を星明りでみて、狂女のくちびるから、歓喜の声がほとばしった。 「おお、あなたは美女丸さま。美女丸さまじゃ、美女丸さまじゃ」  すがりつく女の顔をみて、 「おお、そういうおまえはお志保どの」  男はぎっくりしたようすで、あわててあたりをみまわした。まだ前髪の美少年、それこそ、菜の花畑からさまよい出たかと思われるような、姿うつくしいお小姓だった。 「美女丸さま、美女丸さま、あなたはやっぱり、ここにおいででございましたか。わたしはどのように、おまえを探したかわかりませぬ。ここで会うて、こんなうれしいことはない。もし、美女丸さま」 「…………」  お小姓は無言のまま、鋭いまなざしで、あたりを見まわしている。しかし、菜の花畑につつまれた念仏屋敷のまわりには、どこにも人影は見えなかった。 「美女丸さま、父さんはどこにおいででございます。おまえが連れ出したきり、父さんはかえっておみえになりませぬ。もし、美女丸さま、父さんはどこに……?」 「お志保どの、そなた、長|太夫《だゆう》どのに会いたいのか」 「会いとうございます。どうぞ、会わせてくださいませ」 「よし、会わせてあげよう。しかし、お志保どの、そなたはひとりであろうな。だれも連れはあるまいな」 「はい、ひとりでございます。だれも連れはございませぬ」 「そうか、よし」  美少年はまたあたりを見まわして、 「お志保どの、それではこう来られい」 「はい」  うれしそうに、色若衆に手をとられた狂女のお志保が、いそいそとしてくぐったのは、念仏屋敷の通用門。ふたりの姿が吸いこまれると、ギイと門のとびらがしまって、あとは、墓場のようなしずけさのなかに、鉦《かね》の音ばかりがいんきである。  こうして、お志保と美女丸が念仏屋敷へ吸いこまれてから、しばらくのちのことである。 「親分、いけねえ。とうとう見失ってしまいましたぜ。気ちげえのくせに、いやに足のはやい阿魔《あま》っちょだ」  ぶつくさいいながらやってきたのは、佐七の一行三人である。 「あいてを気ちがいやおもて、気い許したんがいかなんだんやな。もうこうなったら、あきまへんな」 「仕方がねえ。それじゃそろそろあきらめて、ひきあげることにしようか。辰、さっきひろった蝶々の死骸は持ってるだろうな」 「へえ、それは大丈夫です。しかし、親分、変ですねえ。どうして、あんなものがまぶれついてるんでしょう」 「しっ、大きな声を出すない!」  佐七はあたりを見まわしてから、 「それは、おれにもまだわからねえ。うちへけえってから、ゆっくり考えることにしようよ」  なにげなく、念仏屋敷の通用門のまえをとおりすぎながら、 「ちっ、いまいましい。やけにいんきに鉦《かね》をたたきやアがる」 「ほんまに、気がめいりそうだな」  三人はそのまま、念仏屋敷のそばを通りすぎたが、やがて、木母寺のほとりまでくると、 「辰、豆六」 「へ、へい!」 「大きな声を出すない。うしろを見ちゃアいけねえぞ。あとから、おれたちをつけてくるやつがある」 「えっ、お、親分……ど、どんなやつで……?」 「暗いからよくわからねえが、このまま舟で山谷堀《さんやぼり》までいって、辰、豆六、おまえたちはそこで、吉原《なか》へでも繰りこむようなふうをしてわかれよう。あいてはきっと、おれをつけてくるにちがいねえから、そうしたらおまえたちは、逆にそいつのあとをつけて、どこへ落ち着くか、よく見とどけるんだ。わかったか」 「へえ、わかりました。しかし、親分、いってえなんのために、あとをつけてきやアがるんでしょう」 「そりゃアまだわからねえ。しかし、辰、豆六、こりゃアなんだか、おもしろくなってきそうだぜ」  紛々として舞いおちてくる蝶の羽を肩にうけながら、佐七はにんまり笑ったのである。  左の腕に入れぼくろ   ——お志保のからだは燃えに燃えて  その晩、辰や豆六は、とうとうかえってこなかった。  いったい、どこまでつけていったのかしらないが、こんなに遅くなるのはふしぎだと、佐七はしだいに不安が昂《こう》じて、まんじりともしないでひと晩明かしたが、朝になってもふたりは姿をみせなかった。  佐七はいよいよただごとではないと胸がさわいで、朝飯ものどをとおらなかった。 「お粂、ゆうべおれをつけてきたのは、あさぎの法被《はっぴ》に、梵天帯《ぼんておび》をしめた折り助だといったな」 「ええ、そうでしたよ。おまえさんにいわれて、裏からそっと出てみたら、家のまえを、二、三度行ききしていましたが、やがてかどの吉田屋さんのとこで、うちのことを聞いて、立ち去っていったようでしたよ」 「そのとき、辰や豆六は、そこらにいなかったんだな」 「ええ、おまえさんにいわれたので、気をつけてみたんですが、どこにも姿は見えなかったようでした」 「まさか、ここへくるまでに、やられたんじゃあるめえと思うが……」 「おまえさん!」  お粂は声をふるわせる。  日頃は心やすだてに、口げんかのたえない辰と豆六だが、お粂はしんからふたりがかわいいのだ。  青い顔をして、寝不足の目を血走らせているのもむりはない。 「なに、心配するこたアあるめえ。あいつらだって、まんざら機転のきかねえ人間じゃねえから、むやみノ、手ごめにあうようなことはあるめえ。お粂、おら、ちょっと出かけてくる」 「あれ、どちらへ……」 「八丁堀の神崎さまのところへ、ご相談にいってくる」  と、佐七はきのう木母寺付近で拾いあつめてきた蝶の死骸をつつんだ紙を、ふところへねじこむと、 「辰や豆六がかえってきたら、待たせておけ。どこへも出るなといいきかせるんだ」 「おまえさん!」 「どうしたんだ」 「あたしゃなんだか心配だよ。おまえさんの身に、もしものことがあっちゃア……と」 「あっはっは、バカなことをいうな。おれは大丈夫だ」  だが、そういう佐七の顔も、なんだかこわばっていた。  それからまもなく、佐七がやってきたのは、八丁堀の神崎|甚五郎《じんごろう》の住まいである。神崎甚五郎というのは、佐七がかねてから、ごひいきにあずかっている与力である。  そこで、ふたりは長いあいだ、なにやら密談していたが、昼過ぎになって、やっとそれを切りあげて、佐七がおいとまをしようとするところへ、 「申し上げます」  と、若党が障子のそとから声をかけた。 「なにか用事か」 「はい、さきほど新大橋のほとりへ、女の死骸をつめた柳行李《やなぎごうり》が、流れ寄ったというとどけがまいりましたが、いかが取り計らいましょう」 「なに? 女の死骸をつめた柳行李ですって」  佐七ははっと胸をおどらせて、 「そして、そりゃ、いくつぐらいの女かわかりませんか」 「はい、なんでも十七、八のすこぶる美人だということで……」 「そして、その死体はいまどちらに……?」 「広小路の橋番所に収容してあるということですが……」 「そうですか。それじゃ、いずれご検視ということになりましょうが、ひとあしさきに、わっしが出向いてみましょう」 「佐七、そのほうなにか心当たりが……」 「いえ、そういうわけではありませんが、ちょっと気がかりなことがありますから。それじゃ、だんな、蝶のほうはよろしくお願い申し上げます。それから、木母寺のほうもひとつ……あっしでは、もう、顔を知られておりますから……」 「よし、そっちはわしが引き受けた。佐七、これがもし、そちのいうとおりだとすると、容易ならぬ一件だの」 「へえ、まあ、どういうことになりますか。それじゃ、これでごめんこうむります」  八丁堀を辞した佐七が、その足で新大橋、広小路の橋番所へ出向いていくと、あたりはいっぱいのひとだかり。それをかきわけて番所のなかへ入っていくと、目のしょぼしょぼした橋番のおやじが、あおくなってふるえている。 「とっつぁん、とんだお客さんが舞いこんだってねえ。おっ、あれにあるのがそうか」 「おや、これはお玉が池の親分さん、どうもとんだことで……」 「ちょっと、仏様をおがませてもらうぜ」 「へえ、どうぞ……」  橋番所の土間には、水にぬれた大一番の柳行李がふたをとったまま投げ出してある。  そして、そのなかからぱっと花がひらいたように、半身乗り出してのけぞっているのは、腰のものいちまいの、女の死体である。  蝋《ろう》のように白い膚と、燃ゆるようにあかい腰巻きとが、強烈な対照をなしている。  佐七はひとめその顔をみて、すぐにそれが、きのう木母寺のほとりであった狂女であることに気がついた。くびり殺されたとみえて、狂女ののどのまわりには、むざんなひものあとが、くろぐろと食いいっている。  左の腕をしらべてみると、 「美女丸さま命」  という入れぼくろ。 佐七はそれを見ると、キラリと目を光らせた。これからみると、彼女の口走ったことばは、気ちがいの幻想でもなければ、世迷《よま》いごとでもなかったのだ。  佐七は腰のものを左右にひらいて、女の股間《こかん》をのぞきこんだ。むごいことをするようだが、これも役目とあらばいたしかたがない。  佐七はふっとまゆをひそめた。女はたしかに燃えていたらしい。しかし、燃えっぱなしのその炎を、消してもらったような形跡はない。いったい、これはどうしたことか。  佐七は腰巻きをもとどおりにしてやると、 「ひでえことをしやアがる。着物をはいだのは、身元をしられねえためだろうが、なにかほかに手がかりは……」  佐七はなおもくわしく、女の死体をあらためているうちに、ふいにぎょっと息をのんだ。白魚のような女の指のつめのあいだに、なにやら、きらきらするものがはさまっている。 「とっつぁん、爪楊枝《つまようじ》はねえか」 「へえ、どうぞ……」  橋番のおやじが妙なかおをして、とりだす爪楊枝をうけとると、佐七は懐紙を女の手のしたにおき、爪楊枝でつめのあいだをほじくった。  と、パラパラと懐紙のうえに落ちたのは、まぎれもない金粉である。  床の下から泣き声   ——だ、だれだえ、そこにいるのは  それからまもなく、検視の役人が出張してきたので、あとはそれにまかせて、佐七はお玉が池へかえってきたが、辰や豆六はまだかえっていなかった。  佐七はいよいよ胸がさわいで、 「そして、使いもねえのか」 「はい、なんの便りもないんです。おまえさん、なにか、よっぽど危ない仕事でも……」  佐七はふっと、いまみてきた狂女の死体を思いうかべる。  むざんにも、狂女をくびり殺したてぎわからみれば、危ない仕事でないとはいえなかった。  それだけに、佐七はいても立ってもいられぬ思いで、どこからか、便りのあるのを待っていたが、すると、夜になって、八丁堀の神崎甚五郎から、すぐくるようにとの使いである。 「おまえさん、気をつけてくださいよ。あたしゃなんだか気がかりで……」 「なあに、大丈夫ってことよ。八丁堀のほうで、なにかわかったにちがいねえ」  佐七が取るものもとりあえず出向いていくと、神崎甚五郎は、かいがいしく身支度をして待っていた。 「だんな、どちらかへお出掛けで」 「ふむ、木母寺までまいる。話は舟に乗ってからのことにしよう」  甚五郎も緊張した面持ちである。  地蔵橋のほとりへ出ると、舟が五、六隻ついていて、それぞれ二、三人から四、五人ずつ、同心や手先が乗っている。  佐七は甚五郎とおなじ舟に乗った。 「だんな、それじゃいよいよ……」 「佐七、やっぱり、そのほうのにらんだとおりらしい。蝶の羽、それから、死体のつめのあいだから出た金粉を、くわしく調べさせたが、どうもそれよりほかに考えがないようだ」 「それで、場所は……?」 「木母寺からほど遠からぬところに、念仏屋敷というのがある。あるじは、お鯉《こい》といって、もと旗本のご隠居にご寵愛《ちょうあい》を受けたものだが、そのご隠居が亡くなられたので、念仏|三昧《ざんまい》で暮らしているのだと、一日じゅう鉦《かね》をたたいているそうだが、そのうちが怪しい」  佐七は目を光らせて、 「そうそう、その屋敷なら、あっしもゆうべそばをとおりましたが、なにかたしかな証拠でも……」 「そのうちというのがな、佐七、ひと晩のうちに、空き家になってしまったのだ」 「えっ、あ、空き家に……」 「そうよ、ゆうべのうちに家財道具をひっくるめ、舟に乗って、いずくかへ立ち去ったそうだ」  佐七はぎょっと息をのんだ。 「それじゃ、さとられたことに気がついたんですね」 「そうらしい。おおかた、おまえのあとをつけてきたやつが、すぐにそれと注進したのであろう」  しかし、それだとすると、辰や豆六はどうしたろう。  思いきりよく、狂女をくびり殺したところからみても、つかまったとしたら、おぼつかない。  佐七は鉛をのむような心地である。 「それで、そのうちについちゃ、ほかになにか怪しいふしでも……」 「ふむ。いまになってみると、いろいろ、いぶかしいふしがあるというんだな。まずだいいちに、その家にはいろんな男が出入りをしていたそうだ。武士もあれば町人もある。みんなご隠居のむかしなじみで、謡の会をするのだとか、茶の湯を催すのだとかいっていたそうだが、そういうときでも、鉦の音の絶え間がなかったというのが、ふしぎだったといっている」 「だんな、わかりました。鉦の音というのは、金づちの音をごまかすために……」 「ふむ。わしもそう思っている」 「しかし、だんな、そこがすでに空き家になっているとすれば、この人数は……」  佐七は、あとさきにつづく舟を見渡した。  舟はもう霊岸島から三つ股《また》へ出て、ひろい川を黙々としてすすんでいる。空には今夜も、星が降るようにまたたいて、両岸の灯がうつくしい。浅草寺の鐘の音が、河上からゆるやかに流れてくる。  五つ(八時)である。 「そうよ。たとい空き家になっているとしても、いちおう、厳重に捜査をせねばならぬ。かなりひろい屋敷らしいから、二人や三人ではおぼつかなかろう。それに、かれらの引き移ったところについて、なにかの手がかりがのこっていたら、ときを移さず襲わねばならぬ。こういうことは早いほうがよい」 「それはそうでございますね」  一行が隅田村《すみだむら》の念仏屋敷へ到着したのは、それから小半刻《こはんとき》ほどのちのことだった。屋敷のほとりには、同心や手先が二、三人ひそんでいたが、一行が到着すると、すぐそれに合流する。 「どうだ、なにも変わったことはないか」 「はい、ぜんぶ立ちのいたとみえて、ねこの子一匹いねえようです」 「よし、踏みこんでみろ」  手勢をふた手にわけて、裏と表から踏み込んだが、なるほど、なかはもぬけのからである。 「なんでもよい、証拠になりそうなものを見のがすな。むこうも夜のうちに、おおいそぎで立ち去ったのだ。なにか残っているにちがいない」  屋敷のなかはかなりひろくて、母屋に離れ、隅田川の水をひいた池には泉殿もあり、土蔵が二|棟《むね》三棟。  佐七はその土蔵をひとつひとつのぞいていたが、三つ目の土蔵をひらいたとたん、ぎっくり立ちすくんだ。  どこかでめそめそ、すすり泣くような声がする。佐七はぎょっとして、龕灯提灯《がんどうちょうちん》で照らしてみたが、がらんとした土蔵のなかはさむざむとして、どこにも人影はない。  しかし、すすり泣く声は、依然として、きれぎれにきこえるのである。佐七ははっとして、土蔵の床に耳をつけた。すすり泣く声は、たしかに、床下からきこえるのである。 「だ、だれだえ、そこにいるのは……」  佐七が声をかけると、 「あっ、そういう声は親分じゃありませんか」  そういう声はきんちゃくの辰、泣いているのは豆六らしい。  尾行の中間伝内を、佐七がぎゃくに辰や豆六につけさせたのは、あとから思えば、まことに時宜をえた処置だった。  伝内はお玉が池まで佐七をつけてきて、そこであいての素姓をしると、宙をとんで駆けもどったのは、本所もずうっとおくの、法恩寺わきにある武家屋敷。  辰と豆六はそれを見とどけると、すぐ引き返そうかと思ったが、念のために、しばらくようすえをうかがっているうちに、家のなかがさわがしくなってきた。そして、浪人ふうや遊びにんふうのものが三々五々、ひとめをしのんで、屋敷から出てきたのである。  辰と豆六はそのあとをつけて、念仏屋敷までやってきたのであった。 「そこをあいてに見つかってつかまったのか。それにしちゃア、よくも命があったなあ」  土蔵のしたの穴蔵から、辰と豆六をすくい出した佐七は、話をきいているうちに、うれし涙がこぼれそうだ。それもそうだろう。てっきり命はないものと、あきらめていたふたりなのだ。 「いえ、そうじゃねえんで」 「そうじゃねえとは?」 「見つかったら、とても命はなかったでしょうが、あいては、あっしらがつけてきたってことには、てんで気がつかなかったんです」 「ああ、そうだったのか」 「そうだんねん。それでいて、にわかに引っ越しの支度をはじめよったさかいに、こいつは臭いちゅうわけで、兄いとふたりで、なかへ忍びこみましてん」 「あいてはなんしろ、引っ越しさわぎで、目の色がかわってるもんですから、こちとらにゃア、少しも気がつきません」 「そのうちに、この土蔵のなかのもんを、どんどん外へ運び出しよって、これ、このとおり空っぽにしてしまいましてん」 「そこで、そっと入ってみたところが、穴蔵の落とし戸がひらいてるんで、豆六とふたりでおりてみたんです。ところが、しばらくたってあがろうとすると、落とし戸がしまって、うえから錠がおりている」 「それでとうとう、兄いとふたりで閉じこめられてしまいましてん。親分、わてもう腹がへって、腹がへって、目がまわりそうだすわ」  なるほど、食い意地のはった豆六には、この一昼夜にわたる幽閉はこたえたろう。  佐七はきらりと目を光らせて、 「それじゃ、あいてはおまえたちがここにいるとは知らずに、閉じこめこんだのか」 「そうだろうと思いますよ。知ってたら生かしちゃおきますまい。あっしらにしても、声を出して助けを呼ぶわけにはまいりませんし」 「それで、法恩寺わきというのはどういうんだ。いったい、だれのお屋敷だえ」 「へえ、近所でそっときいてみたんですが、もと金座役人をしていた、佐原|嘉平太《かへいた》というひとの下屋敷だそうで。なんでも、浪人者やなんかがずいぶん出入りをしているとかいうことですが……嘉平太というのは、きのう木母寺の近所で、気ちがい娘につかまったあの深編み笠の侍ですぜ」  元金座役人の佐原嘉平太ときいて、神崎甚五郎の顔色がさっとかわった。 「だんな、ご存じですか、そういう人物を……」 「いや、佐七、係りがちがうから、わしもくわしいことは知らぬが、なにか不正なことがあって、昨年、金座から放逐されたと聞いているが……」 「だんな! それじゃもうまちがいありませんね」  佐七はおもわず息をはずませた。  恋に狂った五十男   ——お鯉は三日にいちど裸になって  法恩寺わきの、佐原嘉平太の下屋敷に手がはいって、一味のものが一網打尽にあげられたのは、その夜もひき明けごろのことだった。  佐原嘉平太の一味は、佐七に目をつけられたらしいので、念仏屋敷ではあぶないということになり、夜のうちにおおいそぎで、いっさいがっさいひっくるめて引っ越したが、まさか、当の嘉平太の下屋敷が、すでに目をつけられていようとは、かれらも気がつかなかったのである。  なにしろ、にわかの引っ越しさわぎで疲れたとあって、一杯ひっかけて寝込んだところを襲われたのだから、この捕り物は予想にはんしてたわいがなかった。  かれらはいずれまた、どこかひとめにつかぬところでひと旗あげるとして、当分、鳴りをしずめていようということになり、念仏屋敷からひきあげてきたしろものを、いっさい抱いているところへ手がまわったのだから、証拠物件をかくすひまもなく、すべての秘密は暴露してしまった。  かれらはおおがかりな、偽金造りの一味であった。  佐原嘉平太は金座での経験があるので、その偽金は巧妙をきわめ、昨年いらい、その筋を悩ましていたものである。  あの狂女の父は長太夫といって、駿河《するが》でもゆうめいな腕利きの錺職《かざりしょく》だったが、それを嘉平太のめかけお鯉が色仕掛けで関係をつけ、お鯉の色香に迷った長太夫を、ことばたくみに欺いて、駿河から江戸へつれてくると、一味のなかにくわえたのである。  偽金をつくるには、どうしても腕のある錺職が必要だったのだが、江戸の職人がゆくえ不明になったとあっては、とかく探索がうるさいので、駿河の長太夫に白羽の矢が立ったのである。  娘のお志保はなんとなく心もとなく思った。そろそろ五十に手のとどきそうな年ごろで、お鯉の色香にまよってしまった父の身が案じられた。お志保はつよく父の江戸ゆきに反対したが、それとしると、お鯉はじぶんの弟の美女丸というのを駿河へ呼びよせ、お志保に接近させた。  美女丸はその名をそっくり絵にかいたような美少年の色若衆だった。お志保はいつかこの美女丸の色香に迷うた。美女丸は美女丸で、お志保の名を左の腕に入れぼくろまでして、お志保に心中立てをしてみせた。  お志保もとうとう心がとけて、父の江戸ゆきを承知したのである。  こうして、恋に狂った父と娘は、美女丸につれられて江戸へやってきた。お鯉は江戸で待っていると、ひと足さきに立ったのである。  ところが、江戸についたその夕方、美女丸が長太夫をつれだしたきり、二度とかえらなかったのである。一日待ってお志保は美女丸からきいていた住まいというのをたずねていったが、そこには似ても似つかぬあかの他人が住んでおり、だれもお鯉や美女丸のこと、あるいはそれらしい人物に心当たりのあるものはひとりもいなかった。  こうして、知らぬ他国で、ひとり置いてきぼりにされたお志保は、心細さと美女丸恋しさに、いつか気が狂うて、江戸の町々をさまよい歩いているうちに、木母寺付近を徘徊《はいかい》するようになり、やがて気ちがいながらも、蝶《ちょう》の羽になすりつけられた金粉の秘密を知ったまではよかったが、それをうっかり、佐原嘉平太に口走ったのが運のつきだった。  その夜のうちに美女丸に念仏屋敷へつれこまれ、ぐっとひと絞め、絞め殺されてしまったのであろう。  長太夫は念仏屋敷へつれこまれると、座敷牢《ざしきろう》みたいなところへぶちこまれ、そこで偽金づくりのしごとに従事することを強要された。  長太夫にもむろん理非善悪の分別はあったろう。しかし、五十に手のとどきそうな年ごろで、女の色香に迷った男の心というものは、ものに狂ったも同然である。  お志保の母をはやくうしない、ながいこと男やもめで暮らしてきた長太夫は、そこへとつぜん現れた目も覚めるような美人の手練手管にのせられたばかりか、惜し気もなく体を投げだされては、心の駒《こま》がくるってしまったのもむりはない。  お鯉は三日にいちどくらい、座敷牢へやってくると、ひとを遠ざけ、長太夫のまえに身を投げだし、長太夫の思うままになってやった。  お鯉は顔もべっぴんだったが、裸にするとその体のみごとさは、愛欲にくるった男の目を奪うばかりであった。お鯉はややふとりぎみだったが、けっしてふとり過ぎとはいえなかった。  よく引き締まって、ほどよく脂ののった太腿《ふともも》のあたりは、絖《ぬめ》のように光沢をおび、ほんのりと赤みのさした急所急所が長太夫の視線になめまわされているうちに、しだいにその色を鮮明にし、はてはたえがたいように息をあえがせはじめるお鯉を、長太夫はこのうえもなく尊いものと愛《め》でいつくしんだ。  長太夫は図にのって、あるいはお鯉をうつぶせにし、そのくびれた腰からにわかに盛りあがった、たくましいふたつの隆起の感触を、さんざん手のひらやくちびるで賞翫《しょうがん》し、それでもあきたらずして、その体を二重に折りまげてもてあそび、またもとどおりにひっくりかえすと、絶えいるように息をはずませている女の体じゅうに口づけの雨をふらせた。  こうして、お鯉はさんざん男にじぶんの体をおもちゃにさせたあげく、さいごはまともに男に抱かれて、思いをとげさせてやるのだが、けっこうじぶんも楽しんでいるのである。  そこが淫婦《いんぷ》の淫婦たるゆえんだが、こうすることがいかなる責めや拷問より、長太夫をあやつるには、いちばんのちかみちだということを、この淫婦はよくしっており、欲に目のない嘉平太も、見てみぬふりをしていたらしい。  長太夫は長太夫で、三日にいちどのこの施行に、身も心もただらせていたが、それでも過度の痴戯に疲れたあとなど、ふっと良心の目ざめをおぼえ、娘お志保の身が案じられることがあるというのも、親としてはむりからぬところであったろう。  そこで、なんとかして、いまここでなにが行われているかということを、だれかに知らせたいと思っているところへ、おっぱじまったのが蝶合戦。  木母寺付近にみちあふれた蝶は、ともすれば、牢格子《ろうごうし》のなかへ迷いこんできた。長太夫はそれをとらえて、蝶に金粉をなすくりつけては、外へ放っていたのである。いずくんぞ知らん、そのなぞを気の狂ったわが娘がとき、それがために命をおとすはめになろうとは。  佐原嘉平太の下屋敷で発見されたとき、長太夫はもう完全に虚《うつ》けの状態だった。かれはお志保が発狂したあげく、絞めころされたと聞かされても、さしたる感動を示さなかった。  おそらく、晩年にして、とつぜん襲ってきた情熱のあらしと、半年にわたるお鯉との愛欲痴戯の過度の刺激が、長太夫の身も心もむしばんだのだろう。  長太夫は入牢中死んだというが、かれは息を引きとるまぎわまで、お鯉の名を口走ってやまなかったという。案外、かれは幸福だったのかもしれぬ。  あっぱれお粂《くめ》名推理   ——さんざんあの娘《こ》をうれしがらせて  さて、こうしてお鯉嘉平太をはじめとして、一味のものことごとく捕らえられたが、ただひとりゆくえのわからぬ人物があった。  美女丸である。  嘉平太の下屋敷の手入れのさい、屋敷のすみからすみまで捜索されたが、いちはやく風をくらって逃げたのか、美女丸のすがただけはどこにも発見できなかった。  お鯉嘉平太のふたりも、いかにきびしく追及されても、美女丸のいどころについてはがんとして口を割らなかった。  ふしぎなことに、念仏屋敷の連中も、佐原の下屋敷の連中も、美女丸なる色若衆については、だれひとりとして知っているものがいないらしいことだった。 「さすがに、あんな悪い女でも、弟だけはかわいかったんでしょうねえ」 「そやそや、お志保を引っ張りだすダシに使うたもんの、仲間の連中にはかくしときよったんだっしゃろな」  しかし、美女丸をつかまえないことには画竜点睛《がりょうてんせい》をかくわけである。  辰と豆六はやっきとなって、美女丸のゆくえをかぎまわったが、一味が挙げられてから数日たった今日となっても、いまだに杳《よう》として消息がつかめないのである。 「馬喰町《ばくろちょう》の旅籠《はたご》できいても、それはそれは絵にかいたように、きれいな若衆様だったといってます。そんな器量ならどこにいても目につくはず、それがいまだに、ゆくえがわからねえというのは、天にかけたか地にもぐったか……」 「声はすれども姿はみえず、ほんにおまえは屁《へ》のようなちゅうのんは、このことだんな」  豆六が思案投げ首でつぶやくのを聞いて、佐七はなぜかハッとしたように目を光らせた。 「ほんにおまえは屁のような……ほんにおまえは屁のような……」  と、佐七も二、三度口のうちでつぶやいていたが、 「おい豆六!」 「へ、へ、へえッ! 親分、どないしやはりましてん、だしぬけに大けな声で……わて、びっくりしてしまいましたがな」 「あっはっは、ごめん、ごめん、そういやア向島の土手で、あの気ちがいにいちばんはじめにとっつかまったのはおまえだったな」 「さよさよ。なにせ、わてはこのとおり、水の垂れるような色若衆だっさかいにな。いや、冗談はさておいて、それがどうかしましたか」 「あのとき、あの気ちがいはこういってたな。江戸へ着いたら夫婦《みょうと》の契りをむすぶといいながら、その約束もほごにして、わたしひとりおきざりに……とかなんとかいって、さめざめと泣いていたじゃアねえか」 「あれ、あの娘《こ》、そないなこというてましたか」 「親分、豆六はあのときあがってましたから、つい聞きもらしたんでしょうが、たしかにあの娘《こ》そういってましたよ。しかし、それがなにか……」 「それから、たがいに変わらぬ証拠にと、左の腕にあいての名前を入れぼくろしたとか……」 「へえへえ、そのことならわてもおぼえてます。げんに、お志保の死体には、美女丸命という入れぼくろがあったそうやおまへんか」 「それよ。たがいに入れぼくろまでしながら、夫婦のかためをまだしていねえとはどういうことだ」 「へえへえ、親分、どういうわけだす」 「それから、これはお粂のまえではちといいにくいんだが……」 「あれ、おまえさん、それじゃあたしは座を外そうか」 「いや、おまえにも聞いてもらおう。おまえの意見も聞きてえんだ」 「あら、まあ、大変。そして、それはどういうことなんですの」 「いや、これは辰や豆六は見ていねえんだからむりもねえんだが、くびり殺されたお志保の死体だがね」 「なんでも、腰巻きひとつの素っ裸だったそうじゃありませんか」 「そうよ。そればっかりじゃアねえ。お志保の体は燃えにもえていたのよ。いじらしいほど燃えていた。だから、お志保はばんじ納得ずくで、帯ひもといて男に抱かれ、かわいがってもらうつもりで、身も心も燃えさかっていたらしいんだが、するとあいてはだれだろう」 「親分」  と、辰は声をひそめて、 「それじゃ、ひょっとすると、お志保は美女丸に、めぐりあったんじゃアありますめえか」 「それで、親分、お志保は男にかわいがってもろたような形跡は……?」 「いや、それがねえからふしぎに思っていたんだ。お志保をあんなに燃えさせながら、男のほうでその気にならず、そういうことなしにくびり殺してしまったというのが、おれにゃどうもふに落ちなかったんだが、お粂、おまえそれについてどう思う」 「おまえさん」  お粂がおもわず息をはずませ、まぶたにさっと朱を刷《は》いたのは、怒りにもえてきた証拠である。 「お志保さんのあいてというのは、いかにお志保さんにくどかれ、せがまれても、お志保さんを満足させることのできない体だったんじゃないかしら」 「と、おっしゃいますと……?」 「美女丸というのは、ひょっとすると女だったんじゃ……」 「そ、そ、それだ!」  佐七はおもわず大声で叫ぶと、 「そして、美女丸が女だったとすると、そいつはいったい何者なんだ」 「間違ってたらごめんなさい。ひょっとすると、お鯉という女が、ひとりでふた役をやってたんじゃ……」 「でかした、お粂」  佐七はおもわずひざをたたいて、 「辰、豆六、いまお粂のいったとおりにちがいねえ。美女丸はお鯉の弟というふれこみだから、顔が似ててもお志保は怪しまなかったんだ」 「それじゃ、親分、お鯉が一人二役で親と娘をたらしこんでいたんですか」  これが事実とすると、世にはこれほど奸悪《かんあく》なやつはない。さすがの辰も舌をまいて驚いた。  豆六も目をまるくして、 「なるほど、あねさんにそういわれてみると、そういう気がせんでもおまへんが、そやけど、これを証明するのはむつかしおまんな。お鯉のやつ、なかなか口を割らしまへんやろ」 「なにいってるんだよう。豆さん、お鯉が美女丸なら、お志保の名前の入れぼくろがあるはずじゃアないか」 「それだ、それだ。お鯉のやつ、それをたくみにおしろいかなんかで塗りつぶしているにちがいねえ。お粂、礼をいうぜ。辰、豆六、さあいこう」 「おっと合点だ、伝馬町の牢屋《ろうや》へおもむき、お鯉の体をしらべなおすんですね」 「あの阿魔《あま》、ようもようもわてらを白痴《こけ》にしくさった。こんどこそ面の皮をひんむいたろやおまへんか」  お鯉の左の腕《かいな》には、はたしてお志保命の入れぼくろがあった。  こうなっては、お鯉ももうしらを切るすべもなく、恐れいって、いっさいがっさいどろを吐いた。 「さすがはお玉が池の親分さん、ようまあ、そこまでお見抜きなさいましたね。わたしがほんとに男なら、あんなむごいことをせずともすんだんです。さんざんあの娘をうれしがらせて、味方に抱きこむこともできたんです。あの娘は美女丸に首ったけでしたからね。だけど、そうはいかなかったのが、あの娘の不運、ああして口をふさぐより手はなかったんです」  さすがの淫婦《いんぷ》にして毒婦なるお鯉も、さいごはほろりと声をしめらせたという。  これでこの一件も、ばんじ落着というわけだが、ここにひどく器量を落としたのは豆六である。 「ほんとに、豆さんもだらしがないじゃないか。穴蔵へしのびこんだまでは上出来だったが、大の男がめそめそ泣いてたなんで、話をきいただけでも、きまりが悪くなるじゃないか」  と、お粂にからかわれて、 「あねさん、あんたそないいやはりますけんど、わてなんにも、恐ろしゅうて泣いたんやおまへんで」 「あら、じゃ、どうして泣いたのさ」 「そやかて、あねさん、考えてみておくれやすな」 「なにをさ」 「わてはかえりに、パイ一やるのんを楽しみに、親分をそそのかして、蝶合戦見にいったんだっせ。それがあないなことになったおかげで、飲まず食わずでまる一日……わてもう、腹がへって、腹がへって、それで泣けてきたんですがな」  と、釈明大いにつとめたが、これはいかにも豆六らしいと、その当座大笑いだった。     女難剣難  白雲堂の卦《け》   ——ものすごい女難の相がありありと 「あっはっは、佐七か、おはよう。どれ、ひとつ人相を見てやろう」 「あれ、いやですぜ。ひとの顔さえみれゃ人相人相と、かんにんしてください、こわいから」 「はてな。どうしておれがこわい」 「だって、ひょうばんですぜ。白雲堂の八|卦《け》は百発百中だって。だから、うっかりおまえさんに変なことをいわれると、あっしみてえなもんでも、やっぱり気になりまさあね」 「あっはっは、気のよわいことを申すな。ふうむ、相変わらずいい人相をしてるな。おや」 「先生、おどかしちゃいけません」 「いや、べつに心配することはない。おまえはちかくまた手柄をあらわすよ。ふうむ、それから、女難の相があるから気をつけろ」 「えっへっへ、先生、そりゃあたりまえでさ。親分は年がら年中女難つづきだ。あのあねさんがついていちゃ、親分から女難の相ははなれません」 「親分はまたそれがうれしいんやで、こっちゃらかないまへんわ。先生、察しとくれやす」 「あっはっは、お粂さんは濃厚だからな。どれどれ、辰、豆六、おまえたちも見てやろう」 「先生、あっしこそ女難の相がありありと」 「気《け》もないな。豆六、おまえはどうだ、あっはっは、こっちもチョボチョボか。天下泰平でまずはめでたい」 「ちっ、なにがめでてえもんか。つまらねえ」  そこは浅草観音の仁王門を出たところ。  そこに毎日店を出す白雲堂去来という占い者は、年のころ四十二、三、総髪をむぞうさにたばねて、色あせた羊羹色《ようかんいろ》の紋付きの羽織はかま、いつもぶしょうひげをはやしているところは、占い者というよりも賭場《とば》の用心棒みたい。  だがしかし、これでよく見ると、なかなかの美男子である。  ところで、この白雲堂の卦《け》、よく当たるというので、ちかごろでは、江戸でもしらぬものはないくらい。それでいて、この男の前身をしっているものは、ひとりもなかった。  一昨年の暮れだったか、佐七のすまいのすぐ近所へ引っ越してきて、住みついたのはよいが、妻もなければ子どももなく、金さえあれば酒びたり。  佐七はなぜか、この尾羽打ち枯らした浪人者とうまがあって、なにかと面倒をみていたが、そのうちに占いができるとわかったので、ものはためしと、ここへ店を出さしたところが、これが大当たりの大評判。  したがって、収入も少なくないはずだが、それがまるで笊《ざる》で水をすくうようなもので、いったいどこへ抜けるのか、いつもピーピーしているから、佐七もあきれた。  きょうもきょうとて、観音様へお参りしたかえりがけ、白雲堂につかまったのをさいわいに、みっちり意見しようとすると、 「おっと、いうまい、いうまい。おまえにいくらいわれても、わしの病いは治りはせぬ」  白雲堂は、達観したようなことをいったが、そのとき、仁王門から出てきた男の顔をみると、 「おっと、そこの親方、それとも太夫《たゆう》さんかな。ちっとお待ちなさい」  と、天眼鏡を握りなおした。  呼びとめられたのは、ひとめで役者としれる人体である。年のころは二十五、六。 「あの、わたくしになにか御用で……」 「ふむ、もそっとこっちへ寄らっしゃい。なにやら、気になる相があらわれとるでな」  と、天眼鏡をつきつけて、つくづくあいての顔をみていたが、やがてふうっとため息をつき、 「これゃいかん。おまえさん、よっぽど気をつけにゃいかんぞ。ものすごい女難の相だ。それに、おや、剣難の相がありありと……」 「あの、わたくし、ごめんこうむります」  役者の顔に、さっと紫色の稲妻が走ったかとおもうと、褄《つま》をからげて、群衆のなかを逃げるようにしてかけぬけていく。  佐七はあきれて、 「先生、おまえさんどうしたんです。ひとの顔さえみれば、女難だ、剣難だと、あれじゃ、役者がおこるのむりはねえ。おまえさん、女難にとりつかれてるみてえですぜ」  白雲堂は頭をかいて、 「佐七、おまえにそういわれると面目ないが、じつはそのとおりよ。このあいだから、鏡をみるたびに、わが顔に女難の相がありありと」  いつもながら、こんなことばをきくと、黙っちゃいない辰と豆六だが、このときばかりは、とっさにことばが出なかった。  白雲堂の顔色が、あまり真剣だったからである。 「先生、そして女難のあいてというのは……」  と、いいかけて佐七は気がついたように、 「ああ、そうか。道理で、おまえがいくらかせいでも、笊《ざる》で水をすくうように、消えていくとおもった。おまえ、女にいれあげてるんだな」 「佐七、面目ない」 「女はものになっているんですかえ」 「それが、まるでのれんに腕押しだから、ちかごろではおれも気がくるいそうで、いっそ、ひとおもいに女を殺して……」  と、恋にくるった中年男のひとみがギラギラ光ったから、佐七はおもわずどきっとした。 「先生、冗談いっちゃいけません。いったい、あいての女というのはどういうやつです」 「佐七、それはいえぬ。聞いてもむだだ」  しょんぼりと、首うなだれた白雲堂の思いつめた顔色に、佐七は辰や豆六と顔見合わせたが、そこへカラコロ、日和下駄《ひよりげた》の音をさせて、ちかづいてきたのは、二十ばかりのすてきな美人だ。 「先生、そろそろお中食《ひる》でしょ。お茶を持ってきましたよ」  にっこりわらう女の顔を見て、三人はおもわず目をまるくする。  それもそのはず、そのころ観音様の境内にずらりと並んだ歌仙《かせん》茶屋でも、あかね染めのお蝶《ちょう》といえば評判女だ。いつもあかね染めのきものを着ているばかりか、そのきものもじぶんで染めるという。  そのお蝶が、わざわざお茶をくんできたのだから、辰や豆六は目をシロクロ。 「ああ、お蝶。いつもすまんな」 「先生、おまえの女難のあいてというのは……」 「バカなことをいっちゃいけない」  白雲堂はにが笑いをしているが、お蝶はなにも気がつかず、 「先生、いまここを紅之助《べにのすけ》さんが通ったでしょ。先生、あのひとに、変なことをいったんですってね」 「紅之助? ああ、あの役者か。お蝶さん、ありゃどこへでてる役者だね」  佐七がそばから口をはさんだ。 「あら、親分さん、ご免なさい、ごあいさつもしないで。あのひとは湯島へ出てる中村紅之助さんといって、女形《おやま》で、とても人気があるんですが、なにか先生に変なことをいわれたって、青くなって、プンプン怒ってましたわ」 「ああ、そうか。お蝶。おまえあの男と心やすいのかい」 「あら、先生、べつに心やすいってわけじゃありませんけど、湯島の女坂下に住んでいて、うちが近いもんですから……先生、あたしからよくいっておきますけど、あんまりあんなひとをあいてにしないほうがよござんすよ」  にっこりと白雲堂にながし目をくれ、そのまま立ち去っていくお蝶の色っぽいうしろすたがを見送って、佐七はまた辰や豆六と顔見合わせた。  桜も散って、そろそろ若葉のころの、観音様の境内でおこった、たったそれだけのエピソードだったが、あとから思えば、以上のできごとのなかに、重大な意味が秘められていたのである。  女役者|嵐《あらし》染八   ——白雲堂という大道易者なんです  不忍池《しのばずのいけ》のはすのつぼみが、目立って大きくなるころおい、池の端にある蓮見《はすみ》茶屋という出会い茶屋へ、 「ご免ください。ゆうべこちらで、変なことがありましたってねえ」  と、佐七が辰や豆六と顔を出したのは、あれから十日ほどのちのことである。 「ああ、お玉が池の親分、ご苦労さまで。ちょうど八丁堀《はっちょうぼり》のだんなやお医者さんが、お出向きになったところで。お庭のほうからどうぞ」  玄関わきの枝折り戸をくぐって、飛び石づたいに案内されたのは、池のふちにたっているふた間つづきのはなれである。  足音をきいて、障子のなかから、野口伝八という八丁堀の同心が顔を出した。 「ああ、佐七か、ご苦労だな。いま、良庵《りょうあん》さんにみてもらっているところだが、だいぶやっかいな事件らしいから、よろしくたのむぜ」 「へえ、なんとかやらせていただきましょう」  ふた間つづきのてまえの六畳には、ちゃぶ台のうえに差しむかいで飲んだらしいあとがあり、おくの四畳半にはびょうぶを立てまわした寝床のうえに、女の死体がよこたわっていたが、ひとめそれをみると、佐七をはじめ辰と豆六、おもわずあっと目をみはった。  女は腰のものひとつのあかはだかである。 「へへえ、すると、はだかで寝ているところを、殺されたんですか」  佐七が四畳半へはいっていくと、くわい頭にどじょうひげの医者がふりかえって、 「あっはっは、こりゃ辰や豆六には目の毒だな。しかし、佐七、この女は、はだかで寝ているところを殺されたんじゃないよ。殺されてからはだかにされたんだ」 「えっ、殺されてからはだかにされたとは?」 「そうよ。見ろ、左の乳ぶさをえぐられているだろう。これだけの傷があるからにゃ、布団にもっと血が流れていなければならんはずだが、それが少なすぎるところをみると、きものが吸って持っていったんだな」 「え、きものが吸って持っていったとは?」 「女のきものがどこにもないのよ」  佐七が驚いてあたりを見まわすと、なるほど、どこにも女のきものらしいものはなかった。 「それじゃ、下手人が持っていったんで?」 「そうらしいな。それがこの事件の面白いところ。佐七、おまえの腕のみせどころだ」  この医者は下谷長者町に住む良庵さんといって、いつもこういう事件にひっぱり出されるので、佐七とも顔なじみになっている。  良庵さんは女中の持ってきた水で手をあらうと、 「だんな、まちがいなし、胸のひと突きであえないさいごじゃ。時刻はゆうべの五つ半(九時)ごろかな。もちろん、男とよろしくやってるよ。そうとうはなばなしくな。あっはっは。それじゃ、おれはこれでかえるよ」  飄々《ひょうひょう》と出ていく良庵さんのくわい頭を見送って、佐七は辰と豆六をふりかえった。 「おい、女のきものがどこかにねえか、庭のすみから池のほうまで探してみろ」 「おっと、がってんです」  ふたりがとび出したあとで、佐七はあらためて死体に目を落とす。  としは三十二か三か、女としては薹《とう》が立ちすぎているが、柄の大きな、目鼻立ちのかっきりとしたいい女で、むっちりとした乳ぶさのふくらみ、はりきった四肢《しし》の肉づきが、むせっかえるようである。  髪は鬘下地《かつらしたじ》というのか、こうみたところが素人ではなかった。 「ところで、だんな、女の身元は?」 「それがな、山下の小屋掛け芝居へ出ている、女役者の座頭で、嵐染八《あらしそめはち》というんだそうな」 「それで、ゆうべ、つれがあったんでしょうな」  これはきくだけ野暮である。  出会い茶屋というのは、現今の、温泉マークのはいった旅館みたいなものだから、ひとりで泊まるはずがない。 「それはむろんだが、それについちゃ、おまえがじかにきくがいい。おい、お新、ちょっとここへ来てくれ」  同心の野口に呼ばれてはいってきたのは、四十ちかい女中がしら。そのお新の、語るところによるとこうである。  ゆうべ、五つ(八時)ごろ、紋付きの羽織はかまに、宗十郎|頭巾《ずきん》で、顔をかくしたお武家がやってきて、あとから女のつれがくるが、しずかな部屋をかしてほしいということだった。  そこで、この部屋へとおして、酒さかなを出していると、しばらくして女がやってきた。 「いまからかんがえると、それが染八さんだったんですが、きものの柄といい、身のこなしといい、まるではたち前後の娘のような若づくりのうえ、お高祖頭巾《こそずきん》で顔をかくしていたので、ちっとも気がつかなかったんです」  しかし、こういうところへくる客として、顔をかくしているのはありがちのことなので、お新もべつに怪しまず、女がくるとすぐ引きさがった。  そのときの男のことばのようすでは、泊まっていくような話であった。  ところが、それから半刻《はんとき》あまりたった五つ半(九時)すぎのこと、男が帳場へやってきて、じぶんはかえるが、女は気分がわるいといっているから、朝までねかせてやってくれと、祝儀もたっぷりはずんで立ち去ったのである。 「ちょっと待ってくれ。そのとき男は、なにか持っていたのか」 「それなんですよ。そのときは気にもとめなかったんですが、大きなふろしき包みをかかえていました。あのなかに染八さんのきものや持ちものいっさいくるんでいったのかと思うと、あたしゃくやしくってね」 「ところで、死体を見つけたのは?」 「けさなんですよ。あまり遅いもんだから、お朝という女中を起こしによこしたところが、この有り様で、肝をつぶしてしまいました」 「それで、嵐染八とわかったのは?」 「それは、顔をみれば、すぐわかります。染八さんはときどき、ここへやってきたんです。男はしょっちゅう、かわってましたがね」  お新はあざわらうようにいった。  嵐染八というのは、よほど浮気者らしい。 「ところで、ゆうべの男だが、おまえ、とうとう、顔はみずじまいか」 「はい、むこうが顔をかくすようにしていると、こちらも気をきかして、わざと見ぬようにしているんです。しかし……」 「しかし……? しかし、どうしたんだ」 「こんなことを申し上げて、もし間違ってるとたいへんですけど、姿かっこう、せんにちょくちょく染八さんといっしょにいらしたお客さんじゃないかと思うんですが」 「だれだえ、その男というのは……?」 「親分はご存じかどうかしりませんが、ちかごろ、浅草の観音様に店をだしている、白雲堂去来という、ひょうばんの易者なんです」  佐七はとつぜん、脳天からくさびでもぶちこまれたようなショックを感じたが、そのときそとから、辰と豆六が血相かえてとびこんできた。 「お、親分、た、たいへんだ、大変だ。池のなかからもうひとつ、はだかの男の死体が……」  佐七も、野口同心も、それを聞くとおもわず、はっと顔色かえた。  娥眉柳腰冠天下《がびりゅうようてんかにかんたり》   ——ふたりはどうして裸にされたか  佐七はもう、なんといってよいかわからない。  不忍池番の舟にひろいあげられた、ふんどしいっぽんのはだかの死体は、なんと、湯島の芝居へ出ている中村紅之助ではないか。  しかも、紅之助の胸にも、染八とおなじような傷がある。 「なんじゃ、なんじゃ。またひとつ死体が出てきよったと? いかに陽気がいいからって、そうむやみに死骸がわいて出ちゃこまるな」  あたふたと駆けつけてきた良庵さんは、蓮見茶屋の庭へかつぎこまれた死体をしらべて、 「ああ、もうまちがいないよ。見かけどおり、胸の傷でお陀仏《だぶつ》じゃ。時刻、そうだな、あっちの仏とそうちがわんじゃろ。それ以上、詳しいことはわしにだってわかるもんか。神様じゃないからね。凶器? ちょっと待て、待て」  良庵さんは、はなれ座敷の死体とくらべて、 「そうだな。はっきりいえんが、傷口のもようからみると、おんなじもんらしいな。むろん匕首《あいくち》じゃよ。佐七、わしは知らんぜ。あとはおまえにまかせるよ。わしはこれからかえって、昼寝をせにゃならん。ああ、忙しい、忙しい」  昼寝をするのに、なにが忙しいのか、良庵さんが風のごとく来たり、風のごとく去っていったあとでは、佐七がぼうぜんと立っている。  頭のなかに火のうずがまいて、佐七はなにかしら、むかむかと、嘔吐《おうと》を催しそうな気持ちだったが、そのとき、はなれのなかから女中のお新が、 「親分さん、ちょっと来てください。寝床のしたからこんなものが……」 「なに、寝床のしたから、なにが出てきたんだ」  佐七がはなれへはいっていくと、お新が出してみせたのは、二つに折った短冊《たんざく》で、そこには、墨くろぐろと、達筆で、 [#ここから2字下げ] 娥眉柳腰冠天下《がびりゅうようてんかにかんたり》 去来 [#ここで字下げ終わり]  見おぼえのある白雲堂の筆である。  おそらく、白雲堂が染八の美をたたえて、筆をふるったものだろう。  ああ、もういけない。それでは、白雲堂がとうとう女難のあいてを殺したのか……。  佐七は、あつい吐息とともに、目をつむったが、そこへばらばらと駆けこんできたのは、あから顔の、でっぷりふとった五十男、いっけんして、ばくち打ちかなんかとわかる風貌《ふうぼう》である。  佐七や同心には目もくれず、 「お新さん、染八は……染八はどこにいる」 「ああ、親分、ねえさんならおくの四畳半に……」  男はそれをきくと、草履をぬぐのももどかしげに、おくの四畳半へとびこむと、染八の死体をだいて、名をよびつづける。  佐七はそっと庭へ出ると、お新をよんで、 「お新さん、あの男は……?」 「香具師《てきや》の親分で、ねこの金兵衛というんです。染八さんの芝居の金主で、染八さんの……」 「だんなかえ」  お新はうなずくと、声をひそめて、 「あんなだんながありながら、染八さんは、浮気の虫がおさまらなかったんです。だから、わたしどももはらはらしていました。あの金兵衛というのが、とてもやきもち焼きで、それに、怒ると手のつけられないひとですから……」 「染八とそこに死んでる紅之助はできていたのか」 「さあ、それはあたしどもも存じません。紅之助さんというんですか。そのひとは、いちどもうちへきたことがありませんし、そんなうわさも、ついぞ聞いたことがありませんねえ」 「白雲堂とは、どういう仲だったんだ」 「白雲堂さんはお気の毒でした。みすみす金をまきあげられるばかりで、染八さんは、きっといちども身をまかせたことはありますまい」  佐七はそばできいている辰や豆六と顔見合わせて、ほっとふかいため息をついた。  それでは、やはり白雲堂が、いつか浅草でいっていたとおり、女難のあいてを殺したのだろうか。  しかし、この紅之助はどうしたのか。  あのとき、白雲堂は紅之助という男を、ぜんぜん知っていなかったようすだが……。  そこへ、ねこの金兵衛が、目に涙をためて、しょんぼりはなれから出てきた。 「親分、失礼しました。つい、気が立っていたもんですから……おねがいです。染八のかたきをとってやってください」 「金兵衛さん、かたきの心当たりがありますか」  金兵衛はすごい目をギロリと光らせて、 「女中のお朝にきいたんですが、染八は白雲堂といっしょだったそうじゃありませんか。そうすれゃ、かたきはあいつにちがいねえ」 「おまえ、白雲堂をしっているのか」 「染八から名前はきいていました。野郎、大道易者のぶんざいで、染八のあとを追っかけまわしゃアがって、きっと、恋のかなわぬ意趣晴らしと、ぐさっと、やりゃアがったにちがいねえ」  浮気者の染八も、白雲堂のことばかりは、かくさず打ちあけてあったとみえる。  きっと、ふたりで笑いものにしていたのだろう。 「ときに、金兵衛、おまえここに殺されている中村紅之助という男を知らねえか」 「おなじ芝居者ですから、名前はかねてから聞いてましたが、こいつがどうして染八と、おなじ晩に殺されたのか……」  金兵衛の顔には、真実、ふしぎそうな表情がうかんでいる。 「染八さんとこの男と、なんか関係があったんじゃ……」 「それゃねえでしょう。染八がどんなにかくしていても、あっしゃたいてい、あいつの情夫《いろ》はしってるんです。親分、それより白雲堂をいっときも早くつかまえておくんなさい」 「それゃわかってる。万事はおれにまかせておけ。おまえは手出しするんじゃねえぞ」  それからまもなく、町役人にあとをまかせて、蓮見茶屋を出た佐七の心は、鉛のようにおもかった。  辰と豆六もしょんぼりして、 「白雲堂の先生も、とんだことをやりゃアがって、おれは泣くにも泣けねえよ」 「思いつめた気持ちはわかるが、若いもんやあるまいし、もっとほかに思案がなかったもんやろかいなあ」  ふたりとも泣き声である。佐七はだまって歩いていたが、ふっとふたりをふりかえると、 「辰、豆六、先生がやったとしても、どうして染八の身ぐるみはいでいったんだろうな」 「さあ、まさか欲に目がくれて……」 「バカアいえ、血のついたきものを、古着屋だって買うもんか。それに、紅之助はこの一件にどういう関係があるのか、また、あいつもどういうわけで、身ぐるみはがれていたのか……」  おもい足をひきずりながら、三人がやってきたのは、お玉が池の裏長屋。 「先生、おうちかえ」  と、白雲堂の住まいをのぞいたとたん、三人は、ああ、もういけないと目をつぶった。  白雲堂のすがたは見えなかったが、うごかぬ証拠は、長押《なげし》にかけた紋付きのきものと羽織。つまみ洗いをしたように、ぐっしょり水にぬれているのである。  おおかた、血を洗いおとしたのであろう。 「お、親分……」  辰はとうとう泣き出した。  三つ巴《どもえ》いたちごっこ   ——紅之助はお蝶に夢中やったそうで  白雲堂去来をとらえて、伝馬町へ送った佐七は、その後|怏々《おうおう》として楽しまなかった。朋友《ほうゆう》になわをかけねばならぬじぶんの職務に、つくづく嫌悪《けんお》をかんじずにはいられなかった。  いつか浅草の境内で、白雲堂は佐七を見て、手柄をあらわす相があるといったが、まさかそれが、じぶんが捕らえられる相とは、気がつかなかったであろう。  佐七は皮肉な運命に、泣いてよいのか、笑ってよいのか、わからなかった。  白雲堂はむろん、いちおうの抗弁をした。  しかし、血を洗いおとしたきものと羽織、現場から発見された自筆の短冊《たんざく》をつきつけられ、さらにあの晩、五つ(八時)から四つ半(十一時)ごろまで、どこでなにをしていたかと追求されると、白雲堂もとうとう恐れいったのである。  さらに、白雲堂の罪を決定的にしたのは、紅之助のきものの一片が、白雲堂宅のカマドのなかから、発見されたことである。  それは焼けのこった三寸四角ほどの布地だったが、湯島の芝居のものにみせると、紅之助のきもにちがいないという。  しかも、長屋のもののことばによると、あの晩おそく白雲堂の宅から、絹を焼くようなにおいがしたというのだ。  こうして、白雲堂の罪状はいよいよあきらかとなり、佐七はかれの予言のとおり、ひとつの手柄をつけくわえることになったが、それにもかかわらず、怏々として楽しまなかったのは、白雲堂にたいする友情もあったけれど、もうひとつには、なんとなくこの事件に、割りきれぬものを感じていたからである。 「なあ、辰、豆六、ああして証拠はそろっているが、おれはどうしても先生があんなことをやったとは思えねえ」 「親分、それゃあっしだっておんなじこってす。先生はああして恐れいったが、それじゃなぜ、染八のきものをはいだかってことについちゃ、ひとことも、いえなかったじゃありませんか」 「そやそや、それに、先生は、いつか観音さんの境内で会うまで、中村紅之助なんて、ちっともしらなんだというてはったな」 「もし、親分、なんとかしてください。もしあれが無実の罪だとしたら、あっしら世間に、顔向けができませんよ」 「それよ。だから、おいらももういちど、この一件を洗いなおしてみようと思うんだが、それについておまえたちに頼みがある」 「へえへえ、どんなことでもいたします」 「辰、おまえは山下の女芝居をさぐってみろ。それから、金兵衛があの晩、どこでなにをしていたか、詳しくしらべてくれ。それから、豆六」 「へえへえ、わての役回りはなんだす」 「おまえは湯島の芝居へいって、紅之助の身持ちをしらべるんだ。ひとに恨みをうける男か、そこんところを詳しく洗ってきてくれ」 「おっと、がってんだ。豆六、さっそく出掛けようぜ」  辰と豆六はさっそく外へとび出したが、翌日の夕方までに、だいたいつぎのようなことを調べてきた。 「親分、まず染八のことですがね」 「ふむ、染八がどうかしたのか」 「ここ一年ばかり、あいつがだれかに、すごくしぼられていたらしいということは、一座のあいだで評判だったそうです」 「だれかにって、あいてはわからねえのか」 「それが、わからねえからふしぎだって、みんな小首をかしげているんですよ。だいたい、染八というのは、男にかけちゃすご腕で、白雲堂の先生はじめ、ずいぶんおおくの男をしぼっていたらしいんですが、それでも足りずに、一座のものに借金するやら、金兵衛に内緒で質におくやら、ずいぶんひどい工面をしていたらしいんです。だから、一座のものもいってるんですが、あのすご腕の姉さんを、あれほどしぼりあげるとは、いったいどんなすごい男だろうって」 「親分、親分、そら紅之助にちがいおまへんぜ」  そのとき、よこからひざのり出したのは豆六だ。 「湯島の芝居できいてきたんやが、紅之助ちゅうやつは、女をしぼることにかけては、妙をえてたそうです。ことに、この一年ばかりは、いったいだれをしぼってるのか、いつも金回りがようて、一座のもんに、うらやましがられてたちゅう話や」 「それで、湯島のほうでも、あいての女を知らねえのか」 「そうだんね。それがわからんだけに、みんないっそう、やきもち焼いてたらしい。よっぽどうまく、かくれて会うてたんやな。そうそう、それで、もうひとつ話がおます」 「もうひとつの話たアなんだ」 「人間だれでも、どこかに弱みがあるもんで、それほど女にかけてすご腕の紅之助でも、あかね染めのお蝶にかかったら、まるで意気地がなかったちゅう話だす」 「あかね染めのお蝶……?」  佐七はキラリと目を光らせて、 「それじゃ、お蝶がまた、紅之助をしぼっていたのか」 「いえ、そういうわけやおまへん。お蝶はお蝶で、ほかに思う男があるらしゅうて、あいつにはなもひっかけなんだそうやが、紅之助はもうむちゅうで、ずいぶんお蝶にいれあげたもんや」 「そうか、ふうむ。こいつはとんだいたちごっこだ。ときに、お蝶はどうしてる」 「へえ、わてもその話をきいたもんやで、かえりにお蝶のところへよったろおもて、女坂下まできたら、良庵さんにばったり出会うた。良庵さんはちょうどお蝶のうちからかえりやいうので、びっくりして聞いてみたら、お蝶は四、五日まえの晩から、えらい熱を出しよって、いまだに意識不明やさかい、寄ってもあかんいわれたんで、きょうはそのままかえってきました」 「お蝶が熱を……」  佐七はなんとなく心がさわぐふぜいで、しばらく目をつむっていたが、やがて辰のほうへむきなおると、 「ところで、辰、金兵衛のほうはどうした?」 「へえ、それなんで、それをお話ししようと思っているところを、豆六のやつが腰を折りゃアがって。親分、怪しいのは金兵衛ですぜ」  と、辰はひざを乗りだして、 「親分にいわれたとおり、染八が殺された晩、金兵衛のやつがどこでなにをしていたか、いろいろ聞いてまわったが、どうしてもわからねえ。これ、ちっとおかしいじゃありませんか。それから、もうひとつおかしいのは」 「ふむ、もうひとつおかしいのは……?」 「山下の女芝居では、あのじぶん『引き窓』を出してたそうです。染八はその立ち役で、南与兵衛をやってたそうですが、染八が殺された晩から、与兵衛の衣装大小がなくなっちまったんだそうで」  佐七はけげんそうな顔をして、 「それがどうした」 「親分、南与兵衛の衣装といやア、紋付きの羽織はかま、それに宗十郎頭巾をかぶれば、あの晩の染八のつれにそっくり、だから、金兵衛のやつが芝居の衣装をぬすみだし、白雲堂の先生に化けて、染八をぐさっとひと突き」  佐七はそれをきくと、なぜかギクッとまゆねをふるわせた。  評判あかね染め   ——紅之助を殺したのはこのあたし 「親分、親分、どこへいくんです。山下へいって、金兵衛をつかまえるんじゃねえんで」 「山下へはいずれ出向くが、ちょうど道順だ。お蝶をちょっと見舞ってやろうよ」 「ありゃりゃ。いつになっても親分は、おなごには親切なこっちゃ」 「だから、豆六、女難の相が抜けねえのよ」  辰と豆六が顔見合わせて、ため息ついているのもかまわず、やってきたのは女坂下、お蝶の住まいのまえまでくると、駕籠《かご》が一丁とまっている  はてな、客があるのか、だれかこれから出かけるのかと、ひょいと格子のうちをのぞくと、出会いがしらに顔見合わせたお蝶が、 「あれ、親分さん」  と、なるほどげっそりやつれた顔で、よろよろと佐七の胸にすがりつくと、 「いま、お宅へ伺おうと思っていたところでした。白雲堂の先生は……白雲堂の先生には……」  と、お蝶はひとみをうわずらせ、 「なんの罪もありません。先生は……先生はあたしをかばって、罪をひきうけてくだすったんです」  と、わっとばかりに泣きくずれたから、佐七は辰や豆六と、思わずぎょっと顔見合わせた。 「お蝶さん、お蝶さん、どうしたもんだ。患うていると聞いたから、ちょっと見舞いによったんだが、もう起きあがってもよいのか」 「ああ、もし、親分さん」  お蝶のうしろから、ばあやらしいのがおろおろしながら、 「さっきお蝶さんの熱もさがり、やっと気もたしかになったので、わたしがつい、白雲堂さんの話をすると、急にとりのぼせて、やれ、駕籠をよべの、お玉が池までいってくるのと、わたしも困っていたところでございます」 「ああ、そうか、それはちょうどよいところへきた。おい、駕籠屋、いまきいたとおりだから、おまえたちにゃ用はなくなった。すまねえが、これでかえってくれ」  と、いくらかの酒手をやって、駕籠屋をかえすと、お蝶のからだを抱き起こし、 「とにかく、おまえはまだ、ほんとの体じゃねえんだから、あまりとりのぼせちゃいけねえ。うえへあがってゆっくり話をきこう」 「はい」  と、うえへあがると、ばあやがさっそく薬湯を煎じて飲ませる。  お蝶はそれでのどをうるおすと、目にいっぱい涙をたたえて、 「親分さん、いま、ばあやからきいたところによると、白雲堂の先生は、紅之助を殺したといううたがいで、捕らえられなすったということですが、それはみんな間違いなんです。紅之助は……紅之助は……」  と、お蝶は声をふるわせて、 「この家で死んだんです。あたしの目のまえで死んだんです。あたしが殺したもどうようなんです」  佐七はまた、辰や豆六と顔見合わせたが、お蝶がそれに少しもかまわず、涙ながらに物語るところによると、こうであった。  あの晩は、知り合いのうちにお通夜があったので、ばあやはそのほうへ出掛け、うちにはお蝶ひとりが留守番だった。  お蝶はしょざいなく、お針かなんかしていたが、すると四つ(十時)ごろ、紅之助がやってきたのである。  お蝶は悪いやつがきたと思ったが、お店のほうで、日ごろひいきになっているので、追いかえすわけにもいかなかった。  そこで、いい加減にあしらっていると、紅之助は例によって、いやらしいことをいいはじめた。  お蝶がそれを柳に風と受けながしていると、とつぜん紅之助が匕首《あいくち》を突きつけた。  いうことをきかねば殺すというのだ。  お蝶もぎょっとしたが、どうせ、そんな度胸のある男ではないとたかをくくって、鼻であしらっているうちに、ふと妙なことに気がついたのである。  突きつけられたのは、白鞘《しろざや》の短刀だったが、まだあたらしい白木の柄《つか》に、べっとりと、黒いしみがついているのである。  そのとき、だまっていればよかったのだが、それをつい、からかうつもりで口に出してしまった。 「紅之助さん、おまえたいした度胸だね。どっかで人殺しでもしてきたんじゃないか。その柄についているのは血じゃないの」  そのとたん、紅之助の顔色が紫色にかわった。  全身がぶるぶるふるえ、目がおそろしいほどつりあがったかと思うと、 「ええい、それ知られたからには……」  と、やにわに突いてかかったのである。 「あたしは冗談でいったんです。からかうつもりでいったんです。だから、その一言に逆上して、紅之助が突いてかかったときにはびっくりしました。さいわい、最初のひと突きがはずれたので、なにをするんだいと、あたしもおてんばだから負けちゃいません。女だてらにお恥ずかしゅうございますが、組んずほぐれつ、もみあっているうちに、急に紅之助が動かなくなったんです。ふしぎに思ってよく見ると、紅之助がわが手ににぎりしめた匕首で、胸をつかれて……」  お蝶はもう泣いてはいなかった。泣くかわりに、恐ろしそうに身ぶるいをして、 「そのときのあたしの驚き、お察しくださいまし。どうしていいか、途方にくれていましたが、そこへ白雲堂の先生がおみえになって……」 「紅之助の死体のしまつをしていったのか」 「はい。不忍池へ投げこんでおくから、おまえはしらぬ顔をしていろと……」  佐七はにわかにひざをすすめて、 「お蝶さん、しかし、白雲堂の先生は、なんだって紅之助をはだかになすったんだ。また、どうしてそのきものを、焼きすてようとなすったんだ」 「ああ、それは……」  お蝶は顔をあからめて、 「親分さん、おまえさんも、あたしのあだ名をご存じでしょう。あかね染めのお蝶……あれは、あたしがいつも、あかね染めのきものを着ているばかりではなく、じぶんできものを染めるからなんです。あたしはいつも、縮緬《ちりめん》の白生地を買ってきて、好きな柄にそめるんです」 「ふむ、それは知ってるが……」 「あのときは夜でしたから、まさか染め物はしてませんでしたが、あかね草をしぼった汁をつぼにとって、そこのすみにおいてありました。紅之助と、組んずほぐれつしているうちに、そのつぼをひっくりかえしたとみえて、紅之助のきものも下着も、ぐっしょりあかね色に染まってしまって……」  佐七はおもわず大きく目をみはる。 「ああ、それじゃ、きものをそのまま着せておくと、あかね染めのおまえに、疑いがかかるというので……」 「はい、紅之助がしつこく、あたしにいいよっていたことは、芝居のひとは、みんなしっていましたから……」  ああ、これで紅之助に関する白雲堂の疑いはとけたが、しかし、もうひとつの染八の件がある。佐七は歯をくいしばって、しばらくなにかかんがえていたが、 「ときに、お蝶さん、白雲堂の先生は、もうひとつほかの人殺しにも疑いをうけていることは、おまえもしっているだろうね」 「はい、それもさっき、ばあやさんからききました。でも、それだってきっとまちがいです。先生にかぎって人殺しなど……」 「でも、お蝶さん、こんなたしかな証拠があるんだ。これゃ先生の自筆だからな」  佐七が出してみせたのは、蓮見茶屋の現場で見つけた短冊だ。お蝶はなにげなく手にとってみて、 「あれ、親分さん、これはあたしが先生に書いていただいた短冊です。いいえ、まちがいはございません。ここに、雲のようなしみがあるのがなによりの証拠、あたしはこれを、そこの壁にかけておいたんですが、十日ほどまえに、だれかが持っていってしまったんです」 「だれかが……? だれかがって、おまえそのぬすっとに心当たりはねえのか」 「あたしは紅之助だと思っていました。だって、あのひと、とても先生を憎んでいたんですもの」 「紅之助が先生を……? いつか観音様の境内で、へんなことをいわれたからか」 「いいえ、そうではございません。ずうっとせんから……紅之助は先生にわたしのことで、やきもちやいていたんです」 「紅之助が先生にやきもちやく……」  真っ赤になったお蝶の顔を、佐七をはじめ辰と豆六、目をまるくして見つめていたが、きゅうに佐七が手を打って、 「お蝶さん、そ、それじゃおまえのほれてる男とは、白雲堂の先生だったのか」  お蝶は真っ赤になってうじうじしながら、 「親分さん、察してください。それだのに……それだのに、先生はちっとも、あたしの気持ちなどしってくださらないで、顔さえみると、おまえには片思いの相があるなんてからかうんです」 「あっはっは、こいつは大笑いだ。なるほど、そういやア先生は、あれでなかなかいい男だからな。それにしても、易者じぶんの身知らずとはまったくこのことだ」  佐七は腹をかかえて笑ったが、なに思ったのか、にわかにひざを乗りだして、 「ときに、お蝶さん。紅之助のすまいはこの近所ときいたが、だれかいっしょにいるのか」 「いいえ、ひとり住まいで、かぎはとなりのおかみさんがあずかっています」 「そうか。よし、辰、豆六、おまえたち、これから紅之助のうちへいって探してこい。紅之助はあの晩すぐに死ぬとは思わなかったから、一件のものは、まだ家のなかにかくしてあるにちがいねえ」 「一件のものとはなんです、親分」 「知れたことよ。あの晩ふたりが蓮見茶屋へ着ていった黒紋付きの羽織はかま、それに二十前後の娘の衣装よ。なにを目をパチクリさせていやアがる。はやくいってこい!」  佐七は颯爽《さっそう》としてどなりつけたのである。  嵐染八裸の由来   ——お蝶さん存分にいじめてやるがいい  一件はすっかり落着して、白雲堂のうたがいははれたが、みだりに死体を遺棄《いき》するだん不届きなりとあって、手錠三十日を申し渡された。  その日、佐七が辰や豆六をひきつれて、白雲堂を見舞いにいくと、お蝶がいそいそとして、不自由な白雲堂のめんどうをみている。  三人はそれをみると、にやりと笑った。 「やあ、佐七か、このたびは世話になったな」 「とんでもない。こっちこそ、先生になわをかけたりして、冷や汗もんでさ。ところで、先生、さっそくですが、染八の殺された晩の、五つ(八時)から四つ半(十一時)まで、どこにいたか、先生はいい開きができなかったが、あれはどういうわけです」 「ああ、あれか。あの時刻のおわりのほうは、紅之助の死体のしまつをしていたから、これゃいえない。そして、まえのほうの時刻は、まんまとペテンにひっかかったのよ」 「ペテンとは?」 「こよい五つ(八時)から四つ(十時)までのあいだ、不忍池の中の島弁天のところで、いつものようななりをして、待っていてくれという染八の手紙よ。わしはそれをまに受けて、待っていたんだが、むろんだれも来やあしない。そのことをおまえにいおうと思ったが、そんなところで一刻《いっとき》も辛抱していたとは信じまい。それに、証拠のその手紙も、だまされたとわかった腹立ちまぎれに、破って捨ててしまったからな。そこで、面倒臭くなって、なにもかもいっしょに背負うてやろうと思ったのさ。いささか世をはかなんでいたおりじゃでな。あっはっは」 「なるほど、うまくたくらみやアがったな。おまえさんのアリバイつぶしですね」  そんなことはいやアしないが。 「しかし、佐七、いったいだれがたくらんだのだな。染八を殺したなア、やはり紅之助だったのか」 「そうですよ。それじゃひとつ絵解きをしましょう。辰や豆六にも、まだわからねえふしがあるようだから」  佐七はいっぷく吸いつけて、 「紅之助はさんざん染八をしぼってきたが、ちかごろそれと切れたくなった。それというのが、そこにいるお蝶さんにほれたからだ。しかし、ただ牛を馬に乗りかえただけじゃ、染八の返報がおそろしい。いや、染八はこわくないが、あとについている金兵衛がこわい。そこで、染八とじぶんの仲をだれもしらぬをさいわいに、染八を殺して、その罪を先生になすりつけるという、一石二鳥の妙案をかんがえたんだ」 「なんでまたわしに……」 「あっはっは、それはあとで申しますが、そこでまず、先生に偽手紙を出しておびき出すとともに、染八をだまくらかして、先生とおんなじようななりをさせ、蓮見茶屋へ呼びだしたんです」 「げっ、親分、それじゃ、あの晩の男は、染八だったんですか」 「そうよ。おまえはだれだと思っていたんだ」 「わてはひょっとすると紅之助かと……」 「バカアいえ。あの衣装は、女芝居の衣装だったんじゃねえか」 「なるほど、すると、あの晩の女というのは」 「紅之助よ。辰、豆六、おまえたちまだ気がつかねえのか。染八と紅之助のあいびきが、一年あまりも気づかれずにすんだというのは、いつも染八が男にばけ、紅之助が女にばけて、あいびきしていたからさ」 「な、な、なアるほど」 「染八はあのとおり、女としちゃ大柄のほうだから、男のなりをしてもおかしかあねえ。それに、ふだん舞台では、男役専門だからなれてもいる。いっぽう、紅之助は女形《おやま》が売りものの役者だから、からだの寸を盗むすべをしっている。つまり、じっさいよりは小さくみえるコツを心得ている。だから、いつも男と女がいれかわって、こっそりあいびきをしていやアがったんだ。ふたりとも頭巾《ずきん》で顔をつつんでいたから、だれにも気づかれずにすんだんだな」 「なアるほど、うめえこと考えやアがったな」 「そやさかいに、ふたりの仲はながいこと、だれにも気づかれずにすんだんかいな」 「そうよ。だから、あの晩も染八は、紅之助のことばをふかくもあやしまず、南与兵衛の衣装をきてでかけた。それが白雲堂の先生のいつものみなりににているなんてこと、染八は気づかなかったんだな。いや、気づいたとしても、まさか紅之助にそんなふかいたくらみがあろうとは思うまい」 「それゃアそうでしょうねえ。で、それから……」 「さて、蓮見茶屋のはなれ座敷で、いろいろよろしくあったのちに、紅之助は染八を殺したが、そこではたと困ってしまった」 「親分、なぜ困りましてん」 「なぜって、死体をしらべれば、男か女かすぐわからあ。だから、南与兵衛の衣装をのこしていくわけにゃいけねえ。それが染八一座の舞台衣装とわかってみろ。さては男とみえたがそのじつ女、染八だったのかということにならあな」 「なアるほど」 「さては女とみえたがそのじつ男……ちゅうことが、すぐ露見するわけだんな」 「そうだ、そうだ。染八の死体にゃ、男にかわいがられたのか、それともわかい男をかわいがったのかしらねえが、とにかく、男とふざけたあとがはっきりと残っていたんですからね」 「あの晩の紅之助は、そこまではいきたかあなかったんだろうが、そこまでいかなきゃあ、女が気をゆるすめえからな」 「そやけど、親分、そんなら紅之助のやつ、じぶんの着てきた女の衣装をのこしといたらいけまへなんだっしゃろか」 「それゃいけねえよ。だって、あれゃ湯島の芝居でつかう『野崎村』のお染めの舞台衣装だもの。そんなものをのこしておきゃ、すぐ足がつくにきまっている。そこで、じぶんが南与兵衛の衣装を着て、じぶんの着てきたお染の衣装をふろしきにつつんで持ってかえったんだ。だから、のこる死体はまるはだかよ」 「な、な、なアるほど」  辰、豆六は目をまるくする。  染八が身ぐるみいっさい、はがれていたわけも、これでわかった。 「佐七、その衣装は見つかったんだな」 「見つかりましたよ、先生。紅之助のうちにかくしてあるのを、辰と豆六がみつけたんです。紅之助はつぎの日を待って、お染めの衣装は、湯島の芝居へこっそりかえし、南与兵衛のほうは、なんとかしまつをするつもりだったんでしょうが、そのまえに、お蝶さんのところへ押しかけていき、あんなことになったので、衣装はそのままそっくり、紅之助のうちにのこっていたんです。ところで、先生」  佐七はきゅうに、にやにやしながら、 「おまえさんはあの晩、なんだってあんな時刻に、お蝶さんのところへ出かけていったんです」 「あれはなんでもない。こんやはひとりで心細いから、泊まりにきてくれろと、お蝶にたのまれていたんでな。それに、あの手紙にだまされたむしゃくしゃ腹もあったので、出向いていったというわけだ」 「それじゃ、ああいう騒ぎがなかったら、先生は泊まるつもりだったんですか」 「それゃ、お蝶にたのまれりゃあな」  白雲堂がけろりといってのけたから、さあ、辰と豆六はおさまらない。 「これはけしからん。お蝶さんのようなべっぴんのところへ、先生のような男がとまりこんで、それでことがすむと思うんですか」 「辰、バカなことをいっちゃいかんな。お蝶とおれじゃ、親子ほどもとしがちがうぜ。だいいち、お蝶にそんな気がありっこないから大丈夫だ」 「はてな、お蝶さんにそんな気があらへんて、先生の卦《け》にでてまっか。こら、たよりない易者やな」 「バカ、なにをバカなことをいってるんだ」  白雲堂と辰や豆六の押し問答をそばできいていたお蝶は、ついにたまりかねたのか、がぜん、ヒステリーを爆発させた。 「ええ、そうよ、そうよ。どうせあたしはバカよ。辰つぁんも、豆さんも、もうなんにもいわないで。あたしの人相はどうせ片思いよ。片思いのあいてのおかたというひとは、あたしの気持ちもしらないで、女役者なんかにうつつをぬかして、だから、あんなことになるんだわ。いい気味よ、いい気味よ。あたし、もうしらないッ」  お蝶ががっぱとつっぷしたから、いやもう、そのときの白雲堂の顔色こそ、まことにあっぱれみものであった。  顔面が七面鳥みたいに変化して、目玉がとびだし、小鼻がピクピク、くちびるがワナワナ、ひざがしらがブルブル。  やがて、ひとしずくの涙が、つるりと、鼻っぱしらをすべっておちたかと思うと、声ふるわせて、 「お、お蝶! そ、それじゃおまえはこのおれに……」 「あっはっは、先生もやっとほんとの卦《け》がでたな。お蝶さん、ちょうどさいわい、先生は、ここ三十日ばかり、手錠をかまされて、両手の自由がきかねえんだ。かまうことはねえから、つねるなり、ひっかくなり、かみつくなり、また、ひざのうえに馬のりになってあまえるなり、思うぞんぶん、いじめて、いじめて、いじめぬいてやるがいい。あっはっは、さ、辰、豆六、馬にけられねえうちに、さっさと消えてなくなろうぜ」  佐七はまことに、気持ちよさそうであった。     まぼろし小町  仲直り口説の悪口   ——血の道とさむけのご用心願います 「ほんとうにうちの親分にゃ恐れいるねえ、度胸はいいし、気前はいいし、わかるところはよくわかるし、おまけに捕り物にかけちゃ三国一、まったく縦から見ても横から見ても、申し分のない親分だが、玉に傷なのはあの浮気ざた。そこへもってきて、あねさんがまた無類のやきもちやきときているんだから、月にいちどは夫婦げんかだ。出るのひくのと、はでにやらかすのはよいが、とばっちりをくうこちとらの身はたまらねえ。すこしは察してもらいてえものだなあ」 「ほんまに兄いのいうとおりや。わてもこれがつづいたら、こっちの命が長ないと覚悟してます。それにしても、親分いまごろどないしとるやろ。きょうのあねさんのやきもちは、いつもとちごてまた格別やったが、親分、いまごろ、絞め殺されてえへんやろか」 「まさかそんなことアあるめえが、いまごろはさぞや大|修羅場《しゅらば》だぜ。きょうのあねさんときた日にゃ、まったくすごかったからね。きりりと柳眉《りゅうび》を逆立ててよ、親分の胸をこうとって、ええ、もう悔しい、悔しいと、ぎりぎり奥歯をかみ鳴らすところは、まったく夜叉《やしゃ》だね、羅刹《らせつ》だね。おれアもうぞっとしたぜ」 「そらええけど、あとで親分にうらまれへんやろか。仲裁をおっぽり出して、こうして逃げ出してきたんやが、さぞ薄情なやつや思てはるやろな」 「べらぼうめ、そういつも仲裁ばかりさせられてたまるもんけえ。ちったあ、ひとりものの身にもなってもらいてえ。——とはいうものの、豆六、おれアなんだか心配になってきた。それに、こういつまで雨のなかをほっつき歩いていてもしようがねえ。いちど、そっとようすを見てこようか」 「そやそや、それがよろしい。わてもさっきからそない思てました。なに、そっと表からのぞいてみて、まだけんかがつづいとるようやったら、逃げ出したらよろしいがな。ともかく、いちどかえってみまほやないか」  はらわたまで腐るような春雨のなかを、傘《かさ》もささずにつっかけ袖《そで》で、なにやら、くどくどとぐちをこぼしながら、しょんぼり歩いているふたりの男、いまさらどこのだれそれと、説明するまでもなくこのふたりとは、お玉が池は人形佐七の身内のもので、きんちゃくの辰五郎とうらなりの豆六であることは、みなさますでにお察しのとおり。  それにしても、いまのふたりの話を聞くと、佐七の家では、どうやらまたもや、風雲急をつげているらしい。  なにせ、佐七というのが腕もよいが男っ振りもよい。  男っ振りがよいから、世間の女が捨ててはおかない。  親分さん、親分さんとちやほやすれば、当人もまんざら女のきらいなほうじゃない。  とかく変なうわさを立てられるところへ、女房のお粂というのが人一倍のやきもちやきとくるのだから、ときどきこうして、低気圧が襲来するというわけである。 「ああ、ああ、いまいましい、傘も持たずに飛び出してきたものだから、膚までぐっしょりぬれとおりやがった。こう、豆六、おまえちょっとひとっ走り、どういうようすかのぞいてきねえ」 「いやや、わては。うっかりのぞいていて、見付けられたらなぐられるがな、なにせ、むこうはふたりとも、気の立っていやはる場合や。わてより、兄い、あんたのぞいてきておくれやす」 「ちょっ、意気地のねえ野郎だ」  と、いまいましそうに舌打ちはするものの、さて辰五郎にもひとりでいく勇気はない。  しばらく路地の入り口で押し問答をしていたが、 「豆六、いつまでもこんなところに立っていても仕方がねえ。だいいち、大の男がみっともねえや。それじゃ、ふたりいっしょにいってみようか」 「よろしい、兄いといっしょならわても気が強い。それじゃこっそり……兄い、よろしか、足音をさせたらあきまへんで」  と、抜き足差し足しのび足、妙なかっこうをしたふたりが、春雨のなかをぬれながら、わが家の表まできてみると、内部から漏れてくるのがものすごい乱闘のひびきと思いきや、なんと、これがまた、うってかわっていきな三味線のつま弾きだから、辰と豆六、思わずおやと顔見合わせた。 「豆六、だれか三味線弾いてるぜ」 「妙やなあ。あれ、兄い、聞きなはれ、あの歌うとるのん、親分やおまへんか」  と、辰と豆六、あっとばかりあきれかえったが、内部ではそんなこととは露知らず、佐七はいい気持ちで女房に弾かせて、清元の身代わりお俊かなんかを語っていたが、 「お粂、もうよそう。ひさしくけいこをしないから、すっかりのどがいけなくなった」 「あれ、おまえさん、そこでよしちゃ惜しいじゃないか。これからだというところだのに」 「いや、ここらでよしておくのが花だろうよ。これから先へいくとぼろが出る」 「そうかえ。あたしゃもっと聞きたい気がするんだけど……ほんとにおまえさん、いい声をしてるねえ。そのままねこ[#「ねこ」に傍点]にしとくのは惜しいようだよ」 「御用聞きなんかさせとくのはもったいねえか。はっはっは、お粂、まあいっぱいついでくれ」 「あい」  と、お粂はすりよって、酒をついでやりながら、 「声といやあ思い出したが、困りものはうちの辰つぁんだよ。じぶんじゃずいぶんいい声でいるつもりらしいが、まるで割れなべをたたくような声でさ、あれで新内もすさまじいよ、あたしゃあれを聞くと血の道が起こりそうで……」 「いや、辰も辰だが、豆六も困りもんだよ。じぶんじゃ本場仕込みのつもりだろうが、あいつの義太夫《ぎだゆう》には恐れいるよ。ぞっとさむけがしてくるからね」  と、さしつさされつしながら、語るふたりの話を聞いたから、さあ、おさまらないのは辰と豆六。  さんざん気をもませておきながら、かえってみれば、とっくに和平成立しているのはよいが、なにも講和条約の口説のなかに、じぶんたちの悪口を織り込むことはなかろうと、辰五郎はいきなりがらりと格子をひらくと、 「親分もあねさんもすみません。はい、声の悪いのがふたりかえってきましたから、どうぞ血の道とさむけのご用心を願います」  と、どっかとならんでそこへすわったから、佐七とお粂は顔見合わせて大笑い。 「それじゃ、ふたりとも聞いていたのか」 「へえ、聞くまいと思ても聞こえますわ。親分もあねさんも、わてこんなくやしいことはおまへん。いまごろはさぞ剣戟《けんげき》の最中やろ、どっちにけががあってもならんと、心配しいしいかえってみたら、なんのこっちゃ、ふたり仲よう飲んだり歌ったり、おまけに酒のさかなにわてらの声のたな卸しや。親分、こら、どないしてくれはりまんねん」  と、あわやこんどはこのほうが、風雲急をつげそうになったその折りから、だれか格子のすきまから、なにやらどさりと投げこんでいったものがある。佐七は思わず杯をひかえ、 「おや、なんだか妙な包みがとびこんできやアがったぜ。辰、おめえちょっと取ってきてみねえ」 「あっしゃ知りませんよ。親分、勝手にとっておいでなさいまし」 「おやおや、こいつはとんだおかんむりだな。豆六、——といっても、この顔色じゃこいつも動くまい。お粂、おまえあれをとってきてくれ」 「あいよ」  と、立ち上がったお粂は、そこはさすがに御用聞きの女房、まず格子を開いて表のあちこちのぞいていたが、やがて、投げこまれたふろしき包みをかかえてくると、 「どうしたんだろうねえ。いまむこうの酒屋の角を曲がるところをちらりと見たが、どうやらお高祖頭巾《こそずきん》をかぶった女らしい。こちらをむいて手を振っていたが……おまえさん、開けてみようか」 「ふむ、開いてみてくれ」  お粂はいそいで結び目をといたが、中から出てきたのが、なんとこれが三枚の錦絵《にしきえ》だ。 「なんだ、こりゃ錦絵じゃねえか」 「ほんにまあ、なんのためにこのようなものを——おや、ここに手紙が入っていますよ」 「なに、手紙——?」  と、手に取ったのはなまめかしい封じ文。こいつを開いて読むうちに、佐七の顔にさっと緊張のいろがうかんできた。 佐七さままいる——おまえさんが評判どおりの目明かしなら、この三枚の錦絵のなぞをといてごらんあそばせ。 ——まぼろし小町  まぼろし小町——佐七はおやと首をかしげ、 「お粂、その三枚の錦絵をかしねえ」  と、手に取った錦絵に目をとおすと、 「お粂、これゃいま評判の、鳥居|清彦《きよひこ》の風流三小町じゃねえか」 「ほんにそうだねえ。でも、どうしたというのだろう。みんな顔を少しずつ切りぬいて、ああ、気味の悪いいたずらだこと」  と、ふたりの会話に、辰と豆六、いつしかきげんをなおしてのぞきこんでくる。  佐七も思わずウームと腕こまぬいて、目を光らせた。  江戸姿風流三小町   ——故あってこの美人のみ名を秘す  さて、風流三小町というのはなんであるかというに。——  それはそのころ、江戸中の人気をあつめた一枚絵の三幅対で、画工は若手第一といわれた鳥居清彦。  そして、モデルは柳橋の芸者お喜多に、湯島の水茶屋ふじ屋のお仙《せん》、もうひとりは芝明神の矢取り女で鈴虫お蝶《ちょう》、いずれも美人のきこえたかい評判者だが、この三小町にえらばれてからというもの、嬌名《きょうめい》いよいよ天下にひびいて、いまではたいした繁盛だ。  ところが、これを描いた清彦には、ひとつふしぎな話がある。  かれはこの三幅対とどうじに、もう一枚、まぼろし小町という絵を発表している。  これまたまえの三人に負けず劣らず、すこぶるつきの美人だが、ふしぎなことに、この絵にかぎって、どこのだれとも書いてなく、 「故あってこの美人のみ名を秘す」  と、いわくありげなただし書き。  ところが、人間というやつは妙なもので、かくされるといっそう知りたくなるというもの、まぼろし小町とはだれだろう。  芸者か、花魁《おいらん》か、きむすめか、いや、ひょっとすると、ご大身の姫君の似顔ではあるまいか、それゆえ清彦も後難をおそれて、わざと名を隠したのだろうと、寄るとさわると、まぼろし小町の身元|詮議《せんぎ》。  これが人気の立つもとで、四枚の小町絵は飛ぶように売れたものだが、そのうちに、またふしぎなことが起こった。画工の鳥居清彦が病気になったのである。  しかも、これがふつうの病気ではない。  俗にいうぶらぶら病い。朝から晩まで、まぼろし小町の一枚絵をまえにして、ぼんやりと物思い、飯も食わずにだんだんやせていくようすだから、これにはまわりのものが気をもんだ。  清彦ことし二十二歳、むろんまだ独身のことだから、どうやら清彦、まぼろし小町の本人に、せつないおもいを寄せているらしい。  まわりのものもこれには心配して、なろうことなら、この恋、遂げさせてやりたいと、手をかえ品をかえ、まぼろし小町のモデルを詮索《せんさく》したが、清彦いつかな口を割ろうとしない。しかも、日にましやせおとろえていくようで、まわりのものは気が気でない。  ところが、ここに蔵前の札差しで、伊豆屋《いずや》文七という豪商がある。  花街で伊豆文大尽といえば、だれ知らぬものもない大通で、およそ一流の芸人職人で、このひとのいきのかからぬ者はないといわれるくらい。画工の鳥居清彦も、ごたぶんに漏れず、かねてより、伊豆文大尽のごひいきにあずかっていたものだが、伊豆文大尽、清彦のうわさをきくと、 「よし、それじゃひとつ、おれが慰めてやろう」  とばかり、ある日、いやがる清彦をひっぱりだして、柳橋から舟を出した。  取り巻きは清彦のほかに、当時若手筆頭といわれた人気役者、瀬川菊馬をはじめとして、芸界のそうそうたる連中がしめて八人、芸者は三小町のひとりにえらばれたお喜多は申すにおよばず、一流どころが十数名。  これが三隻の屋形船に分かれて、飲めや歌えの底抜け騒ぎだ。  ところが、かんじんの清彦はどうかというに、ほかの連中の歓楽はどこ吹く風とばかり、いよいよ、しょんぼり肩をすぼめていたが、だしぬけにこれが、フラフラとふなべりに立ちあがったかと思うと、 「おお、まぼろし小町」  と、虚空にむかってひと声。——だれかが、 「あ、清彦さん、危ない」  と叫んだときには、ふなべりからざんぶと水の中に転落して——それきり死体もあがらなかった。  さあ、この話が伝わったからたまらない。  鳥居清彦はまぼろし小町に魅入られて、水のなかへひっぱりこまれた、あのまぼろし小町というのは、きっと化生《けしょう》のものにちがいない。そういえば、ひとりものの清彦のところへ、夜よなか、お高祖頭巾《こそずきん》で顔をかくした、それこそゾッとするほどようすのよいのが、おりおり訪ねてくることがあったが、あれがきっと魔性のまぼろし小町にちがいないと、しまいには、これが読み売りになるほどたいした評判。  佐七もむろん職掌柄、こういう評判を知らぬはずはない。  知っているだけに、いま目前に投げられたこの奇妙ななぞが気にかかる。 「親分」  辰もいつのまにかひざをのり出して、 「これゃだれか親分をからかってきたんですぜ。おまえさんのうわさがあまり高いので、いま評判の騒ぎをもちだし……なあ、豆六、おまえそう思わねえかえ」 「さて、そうかもしれまへんが、わてにはなにやらもっと深いたくらみがあるように思えてなりまへん。それに見なはれ、この錦絵が三枚とも、顔のところをくり抜いてあります。それがどうも気に食いまへん。それに、ほら、まぼろし小町というこの署名や」  なるほど、三枚の錦絵は、それぞれ顔の一部がくり抜いてある。  柳橋のお喜多はくちびるを、  ふじ屋のお仙は目を、  矢取り女のお蝶は鼻を。  佐七も腕をこまぬいて、 「お粂、そして、このふろしき包みを投げていったのは、たしかお高祖頭巾の女だといったな」 「はい、うしろ姿をちらりと見ただけだけど、それはようすのよい女——」  といいかけ、お粂ははっとして、 「あれ、おまえさん、ひょっとすると、あれが評判のまぼろし小町ではあるまいか」 「ふむ、なんともいえぬが、おれも豆六とおなじ意見だ。こいつ、ただのいたずらとは思えねえ。辰、豆六」 「へえ」 「小人閑居して不善をなす。ちかごろ御用がひまなところから、みっともねえ夫婦げんか、おまけにおまえたちの悪口までたたいて、はなはだすまねえ。それにつけても、なにか事件でも起こらねえかと、てぐすねひいて待っていたところだ。おまえたちこれから手分けして、お喜多にお仙に鈴虫お蝶、この三人に変わりはないか調べてきてくれ」  きいて喜んだのは辰と豆六、ちかごろの雨で、すっかり湿りきっていた折りからだけに、 「しめた、久しぶりに親分のそういうおことばを聞きゃ、もういうことはねえ。なあ、豆六」 「そうとも、そうとも。御用とあれば、こえの恨みなんかさらりと捨てて、ほんなら兄い」 「豆六、こい」  と、おりからようやく薄日の漏れだしたなかを、しりはしょって一散走り、ふたりはそろって駆けだしたが、それから一刻半《いっときはん》ほどたったじぶんに、血相かえて舞いもどってきた。 「親分、たいへんだ、たいへんだ。やっぱりおまえさんのお察しのとおり、柳橋のお喜多はゆうべ殺されました」 「おまけに、この絵のとおり、くちびるを切り取られて死んでたちゅう話だっせ」  佐七は聞くなり、すっくとばかり立ちあがっていた。  気も狂乱の浜村屋   ——お仙は伊豆文お大臣に招かれて 「親分、親分、いったいどこへ行くんんです。お喜多が殺されたのは柳橋ですぜ。こっちへいきゃ、方角がちがうじゃありませんか」 「ほんまにしっかりしておくれやすや。さっきの夫婦げんかが、まだたたっとるのとちがいまっか」 「うるさい。辰も豆六も黙っていねえ。おれにはすこし考えがあるんだ」  昌平橋《しょうへいばし》のきわまできた人形佐七、なに思ったのか、つと立ち止まってふところから取り出したのがびた銭一枚。こいつをひらりと宙に投げると、器用に片手にうけとめて、 「裏か表か、表が出たら芝の神明、裏が出たら湯島の境内、一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イ」  ぱっとてのひらを開くと裏。 「よし、それじゃ湯島がさきだ」  さきに立ってスタスタいくのを見送って、辰と豆六、きつねにつままれたような顔を見合わせている。  いつも思案に迷うことがあると、びた銭で占うのが佐七の癖だが、それにしても、かんじんの柳橋のほうはほったらかして、湯島だの、芝だのとはなはだ合点がいかない。 「親分、親分、大丈夫ですかえ。それゃ湯島も芝も大事かも知れませんが、げんに人殺しのあったのは柳橋ですぜ。このほうをほったらかしておいて、もし海坊主のやつにでも先手を打たれたら、くやしいじゃありませんか。ちょっ、裏だの表だの、バカバカしくて話にならねえ」 「まあ、いいからついてきねえ。おまえたちの心配はありがてえが、死んでしまったやつは仕方がねえ。それより、生きてるほうがかんじんよ。それに、おまえたちがくわしく聞いてきてくれたので、ゆうべの模様はあらかたわかった。わざわざおれが出向いて、二重手間をとることはねえ」 「へえ」  といいながら辰と豆六、それでも不安そうについていく。  さて、辰と豆六が聞きこんできた柳橋のお喜多殺しの一件というのはこうである。  ゆうべは鳥居清彦が死んでから、三七、二十一日目、蔵前の伊豆文大尽は、じぶんが無理にひっぱり出して、ああいうことになったと思えば、なんとなく薄気味悪い。  また清彦が哀れでもある。  そこで、ゆうべ亀清《かめせい》で、盛大な追悼会《ついとうえ》をもよおしてやった。  会するもの、施主の伊豆文大尽をはじめとして、人気役者の瀬川菊馬、芸者のお喜多のほかに、先日の船遊山にくわわったものは、ぜんぶ集まった。  追悼会とはいえ、どうでこういう連中だ。  はじめのうちこそ神妙に、念仏なんかとなえていたが、まもなく酒になると、座はしだいに浮き立って、やがて、飲めや歌えの乱痴気騒ぎ。ところが、そのうちに、お喜多は頭痛がするといって、どこかへ姿を消してしまった。  はじめのうちはだれひとり、それと気付いたものはなかったが、そのうちだれかが、 「おや、お喜多の姿がみえぬぞ」  と、いい出したが、するとまたほかのものが、 「いや、お喜多ばかりじゃありませんや。浜村屋の太夫《たゆう》さんもみえませんぜ」  と、こういったのは俳諧師《はいかいし》の雨紅という人物。  にやりと、意味ありげに微笑をもらしたが、すると、いままできげんよく飲んでいた伊豆文大尽の表情が、にわかにさっとけわしくなった。 「なに、お喜多と浜村屋の姿がみえぬ? よし、おれが探してきてやろう」  と、足音もあらあらしく出ていくうしろ姿を見送って、一同思わず首をちぢめてにが笑い。ふたりがちかごろお喜多をなかに、ものすごく張りあっていることを知っていたからである。  ところが、それからまもなく、まず瀬川菊馬が座にかえってきた。  そして、またしばらく間をおいて、伊豆文大尽もかえってきたが、ふたりとも口も利かずに、ぐいぐいと酒をあおるばかり。しかも、お喜多の姿はまだ見えぬから、一座はなんとなくしらけた気分だったが、そのとき、奥の離れ座敷のほうから、 「あれえ、だれかきてえ、お喜多さんが——お喜多さんが」  と、ただならぬ叫び声。  一同ぎょっと顔見合わせたが、まず第一に伊豆文大尽がとび出したので、あとからみんなついていくと、離れ座敷の縁側に、お仲という女中がしりもちついて、わなわなふるえている。  みると、座敷のなかには、お喜多がくびり殺されて、しかも血だらけなその顔から、むざんにもくちびるが切り取られているものすごさ。—— 「それでなんだというんだな。お喜多をくびり殺した手ぬぐいというのが、浜村屋の太夫の、定紋入りだったというんだな」  湯島の聖堂を横にみて、ぶらぶら天神のほうへ歩を運びながら、佐七はなにやらもの思い。  空は久しぶりに晴れあがって、道はわるいが、かっと照りはじめた日のいろは、もう夏のちかいのをおもわせる。 「へえ、そうなんで。しかし、親分、まさか、瀬川菊馬がそんなことをしようたア思えません。あんな女のようにやさしい太夫が……」 「ふふふ、辰はひどく浜村屋のひいきをするぜ。しかし、役者というやつア化け物だ。舞台でどんなしおらしい女になるかしれねえが、ふだんの行いまで、女のようにやさしいとは限るめえぜ」 「そらそうかも知れまへんけど、もし瀬川菊馬が殺したんなら、わざわざじぶんの定紋入りの手ぬぐいを、その場にのこしとくはずはおまへんやないか」 「おや、それじゃ豆六も浜村屋びいきか。いや、仰せごもっとも。なるほど、おまえたちのいうとおりだ。これがふつうの岡《おか》っ引《ぴ》きなら、手ぬぐい証拠にすぐさま菊馬をふんじばるところ。さすがは辰五郎親分に豆六兄いだ、感心したよ、見上げたもんだ」 「あれ、いやんなっちまうな。なにもそう、冷やかさなくてもいいじゃありませんか。おい、豆六、もうなにもいうなよ」 「はっはっは、まあそうふくれるな。てめえがふくれるとふぐそっくり、おれアその面をみると熱が出らあ」 「そうだっしゃろ、兄いの面をみると熱が出るし、わての声を聞くとさむけがするし、親分、あんたもずいぶん難儀な子分をお持ちやなあ」 「おやおや、敵はいつのまにか、攻守同盟を結んできたな」  冗談口をたたきながら、それでもうらやましいほどむつまじいのがこの三人で。  やがて、やってきたのが湯島の境内。久しぶりに雨があがったので、はや、あたりは景気づき、あちらの見せ物、こちらの宮芝居などからは、威勢のいい呼び込みの声が聞こえている。  そういうなかを通りぬけて、佐七の一行がずっと入っていったのは、ふじ屋と染め出したのれんの水茶屋。  なるほど、ちかごろ評判のお仙が渋茶をくむとあって、ふじ屋はたいした繁盛だが、おあいにくさま、お目当てのお仙はけさから、ひいきのだんなに招かれて、きょうはおやすみ。 「なんだ。お仙はやすみか。お仙がやすみじゃ仕方がねえ。それじゃ、辰、豆六、ご苦労でも足をのばして、もうひとりの三小町、神明の鈴虫お蝶の顔でも拝みにいくとしようか」  茶をいっぱい飲んだだけで、ふたりが腰をあげたとき、奥からそそくさと出てきた男がある。  三人のそばをすり抜けて、そのままふらふら風のように表のほうへとび出していく。そのうしろ姿を見送って、佐七をはじめ辰と豆六、思わず顔を見合わせた。 「親分、あれは浜村屋の太夫《たゆう》ですぜ」  いかにもそれは瀬川菊馬、おさだまりの鬘下地《かつらしたじ》に野郎帽子、目のさめるような縮緬《ちりめん》の振りそで、黒紋付きの羽織をすべるように肩にかけ、赤いけだしをちらちらさせつつ、いそぎあしにいくところは、まさしく女としか思えないが、しかし、いったいどうしたというんだろう。  きりりとさかだつ柳眉《りゅうび》のけんまく、きっとかみしめたくちびるのすさまじさ。しかもみえも外聞もなく、宙をとぶように走っていくありさまが、いかにもしさいありげに見えたから、あと見送った人形佐七、きっと目をかがやかせつつ、ふじ屋のほうへとってかえした。 「とっつぁん、いまいったのは、たしか浜村屋の太夫だったな」 「おや、これはお玉が池の親分さん、へえへえ、いかにも浜村屋の太夫さんにちがいございません」 「その浜村屋がここでなにをしていたのだえ」 「へえ、それが」  と、おやじがいかにも困ったように、 「ご存じでもございましょうが、この店に出ております茶くみ女のお仙、そのお仙に太夫はきついご執心で、毎日のようにかよっておいでなされます。それをまたお仙が、柳に風と受けながしているものでございますから、浜村屋さんもちかごろではやっきとなり、いまもいまとて、お仙をどこへかくしたの、すぐこれへ出せの、いどころをしらせろのと、いやもう、気ちがいのような沙汰《さた》でございます」 「ほほう」  と、佐七もこれには驚いた。 「お仙も、しかし、女冥利《おんなみょうり》につきるじゃねえか。浜村屋ほどの男にそれほどおもいこまれたら、ありがたがってお受けしなくちゃいけねえ。いや、これは冗談だが、それでとっつぁん、お仙はきょうどこへしけこんでいるんだえ」 「ところが、親分、お仙の申しますのには、浜村屋さんのお志はありがたいが、どうであいては引く手あまたの人気|稼業《かぎょう》、たといいっときはよくっても、すぐ秋の扇と捨てられるのは知れたこと、わたしはそれがいやじゃと申すのでございます。しかし、浜村屋さんといたしましては、いままでこちらから水を向けて、はねられたことなど、一度だってあったためしがない。それが、お仙に限って手ごわいとなると、こいつ男の一分が立たぬとばかり……」 「こうこう、とっつぁん、おれの聞いているのはそんなことじゃねえ。お仙はけさからどこへしけこんでいるんだと聞いているんだよう」 「はいはい。それが、さるごひいきに招かれて……」 「さるごひいきとばかりじゃわからねえ。あいてはだれだ。どこのだんなだ」 「はい、それが蔵前の伊豆文お大尽様で……なんでも向島の寮のほうへまいるとか」  聞くなり、佐七の秀麗なおもてに、さっと紫色の稲妻が走った。 「辰、豆六、こい」  女軽業白魚お波   ——お仙も両眼をくりぬかれて  と、そこでふじ屋をあとにとび出した人形佐七に辰と豆六、浜村屋の姿をさがしてみたが、もうどこにも影も形も見当たらぬ。 「よし、それじゃ向島の伊豆文の寮だ」  駕籠《かご》をいそがせ柳橋、それからさらに、猪牙《ちょぎ》をしたてて、むかうところは伊豆文お大尽の別荘だ。 「おい、船頭さんえ、おまえ、伊豆文の寮というのを知っているかえ」 「へえへえ、伊豆文さんなら、かねてからごひいきにあずかっております。ご別荘は牛の御前のかたほとり、猪牙がなかまではいります」 「よし、それじゃいそいでやってくれ」  ぎいぎいと櫓《ろ》べそをきしらせて、舟は小気味よく水をすべっていく。日はしだいに暮れそめて川のうえは、ようやく小暗くなってきた。 「それにしても、親分、これゃいってえ、どうしたことでございます。お喜多といいお仙といい、三小町のふたりまで、伊豆文と浜村屋が張りあっているというのは、ちと妙な話じゃありませんか」 「なに、べつにふしぎなことはありゃしねえさ。どうで金と暇がありあまって、女あさりによねんのねえふたりだ。三小町のもうひとり、鈴虫お蝶まで、ふたりが張りあっていたとしたところで、おれはべつにふしぎとは思わねえ」 「そやけど妙やなあ、それとゆんべの人殺しと、いったいどういう関係がおまんねん」 「さあ、そこまではおれにもわからねえ。それよりいまのところは、お仙の身のうえが気にかかる。これ、船頭、これより早くいかねえかえ」  すべるようにうしろへ流れる両岸の景色にじっとひとみをすえた佐七のおもてには、まざまざと、深い危懼《きく》のいろがきざまれている。  思い出されるのは、けさ受けとった三枚の錦絵。お喜多はくちびるを、お仙は目を、そしてお蝶は美しい鼻を——それを思いうかべると、佐七はゾッと身ぶるいが出るような恐ろしさだ。  まぼろし小町——鳥居清彦のえがいたまぼろし小町とは、いったいどういう女だろう。  そして、その女がこの気味悪いゾッとするような事件と、いったい、どういう関係があるのだろう。  そいつがはたして犯人か。犯人だとすれば、犯罪の予告にもひとしいあの錦絵を、なぜ、佐七のもとへ送ってよこしたのだろう。  大川橋をすぎるころには、日はとっぷり暮れはてて、小梅あたりの森かげから、ぽっかりのぼった二日の月が、芝居の書き割りみたいに美しい。  おあつらえむきに浅草寺の鐘がゴーン。 「親分、むこうに見えますのが伊豆文大尽のご別荘で、どうやら水門がひらいているようでございますが、なかへこぎ入れましょうか」 「ふむ、ご苦労でもそうしてくれ」 「承知いたしました」  猪牙がすべるように、水門めがけて進んでいったときである。だしぬけに、水門のなかから、一隻の小舟が流れてきた。だれやらひとが乗っているようすだが、船頭の姿は見えない。  おやとこちらの三人が腰を浮かしたとたん、こぎ手のないむこうの舟と、こちらの舟とがどーんとぶつかって、そのひょうしに、むこうの舟から、ひょいと鎌首《かまくび》もたげたのは、なんとこれがお高祖頭巾《こそずきん》の女で、しかもそのひざには、もうひとり、女が髪振り乱してうつぶしている。 「あっ」  人形佐七に辰と豆六、思わずぎょっといきをのんだが、とたんに、むこうの舟からすらりと、お高祖頭巾の女が立ちあがった。  しかも、そのはずみにどうしたものか、頭巾がばらりとうしろへとけて、現れたのは白い顔。  月の光にその顔を見たきんちゃくの辰、 「おお、おまえは両国の女軽業白魚お波じゃねえか」  佐七はそれをみなまで聞かず、ひらりとむこうの舟へとんだが、それよりはやくお波はざんぶと水のなかへとびこんで、なにしろ女軽業の身もかるく、はやいずくともなく後白波。きんちゃくの辰があわててあとからとびこんだときには、水をくぐって、暮れはてた川のうえには、姿はついに見えなかった。  舟底につっぷしていた女が、ふじ屋のお仙だったことはいうまでもない。お仙もお喜多とおなじようにくびり殺され、そして、その両眼はむざんにも、あの錦絵のとおりにくり抜かれていたのである。  矢取り女鈴虫お蝶   ——つもる話は菊もうれしき鈴虫の音  白魚お波は、その夜から、東両国の軽業小屋へかえってこない。  そして、佐七はこのところひどく苦吟のていたらく。なにしろ、評判女がふたりまで、世にも無残な死にざまをしたのだから、奉行所でも捨てておけない。  与力神崎甚五郎もことごとくご心痛で、 「佐七、まだ下手人の目星はつかぬか。どうもそのほうにも似合わしからぬことではないか」  と、毎日矢のようなご催促。しかし、いかに甚五郎の催促でも、まだかんじんの証拠がはっきりわからぬからは、佐七にもなんとも返事の申し上げようがない。  いうまでもなく、伊豆文と瀬川菊馬のふたりとも、ひととおり調べてみたが、これが犯人だという証拠もない。  なるほど、伊豆文がお仙を招いたのは事実だが、待てど暮らせどお仙の姿が見えぬので、ごうを煮やして、本宅へかえってしまったそのあとで、お仙はどうやら寮のなかで殺されたらしい。  瀬川菊馬もいったんは嫉妬《しっと》にたえかね、伊豆文の寮へ駆けこもうかと思ったが、ちょうどその日は、初日をあすにひかえて、芝居のけいこにあたっていたので、思いなおしてあきらめたという。  どちらも、ちゃんとアリバイがあるのだ。  つまり、時刻のうえで犯行と一致しないのだ。  いかさまふたりがお喜多やお仙を張りあっていたことはたしかだが、それだけのことで、伊豆文や瀬川菊馬のような男が、あんな大それたことをしようとは思えぬ。  しからば、白波お波はどうかというに、これまたまことに奇妙な存在で。  いったいこの女がこの事件にどういう関係があるのか、とんと見当がつきかねる。  お波はなるほどちょっと踏める女だが、鳥居清彦が死ぬほど恋こがれたまぼろし小町とは、どう考えても受け取りかねる。  しかも、お波は、お喜多、お仙は申すにおよばず、まだ生きているお蝶や伊豆文、瀬川菊馬などとも、一面識もないあいだがらとやら。  佐七もこれにはとほうに暮れて、きょうは朝から家に閉じこもったきり、腕こまぬいて考えている。  お粂は気が気でなく、無言のままひざに縫い物かなにかのっけているが、とてもお針などできる気分じゃない。  亭主の佐七がこの一番にしくじったら、事件の評判が大きいだけに、名折れもまたひとしおと、けさは早くから神だなにお灯明をあげたり、仏壇に線香をあげたりして、亭主の手柄をいのっている。  これがお粂のよいところで、やきもちもひどいが、それだけに、夫をおもう情はまたひとしお、佐七が苦しんでいるようすをみると、飯ものどにとおらぬほどの心配なのだ。  それはさておき、考えあぐねた佐七は、ふと顔をあげてなにげなく仏壇へ目をやると、 「おや、お粂、仏に線香をあげたのはおまえかえ」 「あい」 「きょうはべつに、おやじやおふくろの命日ではねえようだが……」 「いいえ、そういうわけじゃありませんけど、おまえがあんまりお苦しみゆえ、こういうときには、亡くなられたご先代に草葉の陰からおまもしりていただきたく、さっき拝んでおきましたのさ」 「ああ、そうかえ。苦しいときの神頼みとは、まったくこのことだなあ」  佐七のおやじの伝次というのは、これまた名高い岡っ引きで一時代まえに鳴らしたものだというから、お粂がきゅうに仏ごころを起こしたのもむりではない。  佐七はなにげなく、仏壇の中にゆれている線香の煙をみつめている。  煙はもつれて、あるいは雲になり竜《りゅう》になり、さまざまな模様を虚空にえがいていたが、そのうちにもうろうとうかびあがったのは、佐七がちかごろ寝ても起きても忘れるひまのない、あのまぼろし小町の面影だ。  場合が場合だけに、佐七は一種異様な気持ちにうたれ、しばらくはただ虚空にうかんだその面影を凝視していたが、なに思ったのか、にわかにぎょっといきをのみこんだ。  おお、あのまぼろし小町の目、鼻、くちびる——と、佐七がおもわずからだを乗り出したとたん、線香の煙はゆらゆら崩れて、まぼろし小町はあとかたもなく散ってしまったが、これはもう散ってしまって大事ない。  その瞬間、佐七ははっと真相をつかんだからで。 「おい、お粂」 「あい、なんでござんすえ」 「このあいだ投げこまれた三枚の錦絵。それから豆六の買ってきたまぼろし小町の一枚絵。あれをちょっとここへ出して見せてくれ。なんだかあたりがつきそうだ」 「あれ、おまえさん、それゃほんとかえ」  お粂がいそいそ袋戸だなのなかから取り出した四枚の錦絵、すなわち問題のまぼろし小町と、風流三小町のお喜多にお仙に鈴虫お蝶、佐七はそれをまじろぎもせず、しばらくじっとにらんでいたが、やがてポンとひざをたたくと、 「やっぱりそうだ。お粂、下手人のあたりはついたぜ」 「あれ、おまえさん、ほんとかえ」 「ふむ、こんどはどうやらまちがいはなさそうだ。いま仏壇の煙を見ているうちに、ふと思いついたことがあるんだ。お粂、どうやらなぞのかぎはとけたぜ」 「あれ、それじゃやっぱり、ご先代がおまもりくだすったんだねえ」  お粂はいそいそ立ち上がり、仏壇のまえにぺたんと座ると、手をあわせて拝んでいたが、そこへころげこんできたのが辰と豆六。 「親分、たいへんや、たいへんや。鈴虫お蝶が矢場からぬけ出しました」 「なに、お蝶がぬけ出したって?」  佐七がさっと顔色かえて、 「お喜多お仙が殺されたからにゃ、どうでもこんどはお蝶の番ゆえ、けっしてあの女から目を放しちゃならねえと、あれほど強くいっておいたのに、大の男がふたり見張っていながら逃がしましたですむと思うか」  いつになく佐七はひどい立腹だ。 「親分、親分、まあ、そないにおこらんといておくれやす。わてらけっして怠けてたわけやおまへんけど、あいてのほうが一枚うわてや」 「ほんにひでえあまで、厠《はばかり》へいくふうをして、そのまま矢場の裏からぬけ出しやがったんです。そのかわり、親分、あとにこんなものが残っておりましたから、だいたい行く先のあたりはついております。親分、まあ、これを見ておくんなさいまし」  辰五郎の取り出したのは一通の結び文。取る手おそしと開いてみると、 [#ここから2字下げ] こよい六つ半やなぎばし舟宿、さがみ屋にてあいまちそろ、つもる話を水のうえにて、菊[#「菊」に傍点]もうれしき鈴虫[#「鈴虫」に傍点]の音。 [#ここで字下げ終わり] 「ふうむ、これゃ菊馬からの呼び出し状だな。しまった。辰、豆六、こいつは一刻もゆうよはならねえ。お粂、支度をしてくれ」  佐七の顔にはいつにないふかい危懼《きく》の色がうかんでいるのである。  賭《か》け勝負色と金   ——わっと叫んだがこの世の名残  さがみ屋——  と、嵯峨《さが》ようで書いた籠目行灯《かごめあんどん》、そのほの暗い灯のしたへ、 「ごめんくださいまし。浜村屋の太夫《たゆう》さんはおいででございましょうか」  そですり合わせてはじらいがちに、ほんのりほおをそめたのは、いうまでもなく矢取り女の鈴虫お蝶。  お蝶はこのときとって十八、商売柄、まんざら男を知らぬはずはないが、瀬川菊馬のような人気者に口説かれたのはこれがはじめて。あまりうれしく、もったいなく、いちじは夢かと疑ったが、あいてがたいした執心なので、きょうはともかく会ってみる気で、こうしてやってきたものとみえる。 「おや、お蝶さん、いつ見てもきれいだこと。ええ、ええ、太夫さん、さっきからお待ちかねでございますよ。さあ、こちらへ」  と、舟宿のおかみの愛想よく、さきに立ってとんとんとんと水際に降りると、 「太夫さん、お待ちかねのが」 「おお、すこしも早く」  すでにしつらえられた屋形船の障子の裏から、なまめかしい含み声。 「それ、お蝶さん、太夫さんがああおっしゃいます。なにをそのようにうじうじと。さあ、さあ、早くいっておあげなさいまし」  うしろから背中を押されて、 「あれ」  と、とんとん歩板《あゆみ》をのめったとき、屋形船の障子がひらいて、おしろいつけた男の手が、 「お蝶どの」  とそでをとらえた。  お蝶がうじうじ顔をかくして、それでもやっと乗りこむと、障子はなかからぴたりとしまって、 「おかみさん、はよう船頭衆を」 「おお、ほんに伊太八はどうしたことやら、お客さまを捨ておいて。これ、伊太八、伊太八え」 「おっと、いますぐまいります」  船頭の伊太八が乗りこむと、舟はやがて暗い上手へ、菊もうれしき鈴虫の、ふたりを乗せてこぎのぼる。  ところが、この舟がようやくやみにみえなくなったと思うころ、あわを食ってさがみ屋へ、駕籠を乗りつけた男がある。ころがるように駕籠のなかから出てきた客の顔をみて、 「おや、あなたは伊豆屋のだんなさま、ようお越しでございました。舟でございますかえ」 「おお、おかみ、あいさつなどどうでもよい。おまえのお世辞には聞きあいたわ。それより、あれがきたであろう。おお、それそれ、神明の鈴虫お蝶、それから浜村屋の太夫もきおったであろう。ふたりはもう舟を出したか。ええ、まあ、おかみの水臭い。太夫のほうに義理もあろうが、この伊豆文にも義理はあるはず。おかみ、どうじゃ、どうじゃ、ふたりはもう舟を出しおったか」  まるで狂気の沙汰《さた》である。  日ごろおうような伊豆文が、ごま塩の鬢《びん》をふるわせ、目を血走らせているところは、どう考えても正気とは見えぬ。  おかみはあきれて、ものもいえずにあいての顔をただまじまじと見守るばかり。と、このとき伊豆文の背後から、 「伊豆文、ひどくお心せきのようすでございますね」  だれか声をかけた者がある。 「なに、大きなお世話だ。ひとがいそごうと、いそぐまいとこっちの勝手、あいつにせんを越されては、満座のなかで大口たたいたこの伊豆文の男が立たぬ。どいつじゃ、おれを伊豆文などと、しゃらくさい呼び捨てにしやがるのは」  と、振りかえったとたん、伊豆文の顔はさっと土気色になった。 「あ、こ、これはお玉が池の親分。いえ、なに、ちょっと心急ぎのことがあって、つい失礼なことを申しました。どうぞお聞き流しくださいまし」  佐七はせせら笑いながら、 「どういたしまして、あっしこそ、いま全盛のお大尽さまをとらえて、しゃらくさい、伊豆文などと呼び捨てにして、まことに申し訳がありませんねえ」 「親分、いや、まことに恐れ入りました」  さすが一世の驕児《きょうじ》伊豆文大尽も、佐七の目にぐっとにらまれちゃ、へびのまえのかえるも同然、額からはたらたらと玉の汗が流れている。 「それにしても、お大尽、いま聞いてりゃ、鈴虫お蝶を菊馬のやつに先を越されちゃおまえさんの男がたたぬとやら、それではじめてわかりました。なるほどなあ、満座のなかで、どちらがさきに三小町をものにするか、色と金との賭《か》け勝負、菊馬の人気と男っぷりが勝つか、伊豆文大尽の金の力がものをいうか、小人閑居して不善の賭け、お大尽様、あっしの見込み、はずれましたかえ」  にらまれて、さすがの伊豆文もさっとあおざめると、 「いや、親分、面目しだいもございません」 「なにもあっしに謝ることはねえ。謝るなら、お喜多とお仙だ。いや、もうひとりあるかもしれねえ。おまえさんたちが酔興な賭けをしたばっかりに、あたらいのちを落とさねばならぬものができあがる。おかみさん、伊豆文さんに舟を出してあげねえ」 「はい、あの……」 「なにも気づかうことはねえってことよ。おれもむこうの舟に用があるんだ。伊豆文さん、おまえさんもいっしょにおいでなさいまし。辰、豆六、気をつけろ」 「おっと、合点や」  やがて舟の用意ができあがると、まずいちばんに乗りこんだのが辰と豆六、それにつづいて佐七が乗ると、いちばんあとから伊豆文が、さすがにしりこそばゆそうに乗りうつる。  やがて、船頭がギイと櫓《ろ》をなおすと、舟はするする岸からはなれる。  見送ったおかみの顔色も、なんとなく不安そうだった。 「船頭、まえの舟はわかっているだろうな」 「へえ、よく承知しております」 「いまごろはどのへんだろう」 「おおかた、首尾の松あたりでございましょう」 「じゃ、大急ぎでやってくれ。人ひとりのいのちにかかわることだ」  伊豆文の顔はふたたびさっと土色になる。  しばらく無言で、舟はスイスイと川の上をすべっていたが、やがて首尾の松がむこうに見えてきたころ、きんちゃくの辰がだしぬけに、つつ抜けるような大声をあげた。 「あ、親分、親分、むこうへいくのは白魚お波じゃありませんか」 「なに、白魚お波?」  佐七がさっとふなべりに片脚かけてながめると、いましもスイスイ抜き手をきって、首尾の松目ざして泳いでいくのは、まぎれもなく白魚お波。うしろになびく黒髪が十三夜の月影くだいて、玉の膚がその名のとおり、白魚のようにうつくしい。  お波はやがて首尾の松に泳ぎつくと、そこにもやってあった屋形船にひらりとあがって、そのまま姿は障子のなかへ消えてしまった。 「あ、あの船だ」  首尾の松にもやった船は、船頭のおりるがならい。あとには喋々喃々《ちょうちょうなんなん》の、うれしい男女のみのこされることになっているが、それにしてもお波が乗りこんでから、なんの気配もないのが気にかかる。 「おお、それじゃもう遅かったのか」  佐七は天をあおいで長大息したが、事実そのとおりだったのである。  やがて佐七の舟がこぎ寄せたときには、鼻をそぎおとされた鈴虫お蝶、あけにそまってこときれて、そのうえに黒紋付きに黒縮緬《くろちりめん》の頭巾をかぶった男が、これまたあけにそまって折り重なっている。  そして、その男の死体にとりすがって、よよとばかり泣き伏しているのは、これはまた意外に殊勝な白魚お波。  いやいや、まだまだ意外なのは、瀬川菊馬で、これは長襦袢《ながじゅばん》いちまいに、さるぐつわをはめられ、両手をたかてこてに縛られて、屋形船のすみのほうで、生きた色もなく、真っ青になって、ただぶるぶるとふるえているのである。  だが、そうすると、菊馬の着物をき、菊馬の頭巾をかぶって、お蝶といっしょに死んでいるのは、いったいだれだろう。 「伊豆文、浜村屋も見ねえ。これがおまえさんたちの酔興な賭けのもたらした罪な結果だ」  頭巾をとった死人の顔を、佐七がぐいとあげたとき、伊豆文はそれこそ、幽霊でもみたように、ぎゃっと叫んだがこの世の名残、いまのことばでいえば、さしずめ心臓まひというやつだろう、そのまま息は絶えてしまったのである。  伊豆文がそれほどおどろいたのもむりはない。  それこそ、いつぞやふなばたから足踏み滑らして死んだはずの画工、鳥居清彦の変わりはてた姿だったので。  解けるなぞまぼろし小町   ——哀れなのは清彦の心事でございます 「さようでございます。まぼろし小町などというものは、ほんとはこの世には、ないものなんでございました」  事件落着ののち、与力神崎甚五郎のもとへ報告にきた佐七の面は、いつになくさえず、ふかい憂愁のいろがあらわれていた。 「お喜多のくちびる、お仙の目、お蝶の鼻と、めいめいの、いちばんうつくしいところをとって作りあげたのがすなわち清彦のまぼろし小町。あっしゃ四枚の錦絵を、いくども見比べているうちに、はじめてそれと気がつきました。すると、ようやくなにもかもわかったのでございます。まぼろし小町に恋いこがれるものは、すなわちお喜多のくちびる、お仙の目、お蝶の鼻に恋いこがれるもの、そしてそれを他の男にふれさせまじと願うものでございます。そういう男は、清彦をおいてはほかにありません。清彦は死んだのではない。水におちて死体のあがらなかったのは、死体が海にながされて、魚の餌食《えじき》になったからではなく、水底をくぐって、いずれかへ姿をくらましたからだと気がつきました」 「…………」 「清彦はあわれな男でございました。三人の女の長所をとって、まぼろし小町をつくるうちに、いつしかこの三人を、おのが偶像にまつりあげたのでございます。ところが、清彦の絵のおかげで、ぱっと江戸中の人気者になったこの三人は、いまや、伊豆文と菊馬の、いまわしい賭けのいけにえになろうとしている。せっかくじぶんのつくりあげた偶像も、いつかはこの男たちにけがされるだろう。菊馬の色、伊豆文の金をもってすれば、いつかは三人とも、かれらのどちらかになびくにちがいない。あの目、あの鼻、あのくちびるが、ああいういやらしい男のおもちゃにされるのかと思うと、そして、おもちゃにされて捨てられるのかと思うと、清彦はその日から、食がすすまなくなったのでした。この世がはかなくなったのでございました」 「…………」 「そんなことから、とうとう思いつめた清彦は、いっそ伊豆文や菊馬にけがされぬうちに、愛する三人を殺して死のう。——そう決心したのがそもそものはじまり。そして、清彦はそれをやりとげたのでございます。りっぱに、完全に、伊豆文や菊馬に、鼻を明かしてやりとげたのでございます。おそらく、そのときの清彦の心持ちは、美しいものを守ろうとする、あの尊い芸術家の気持ちでもございましたろう。そして、そういう気持ちがわかれば、殺されても三人の女も、きっと満足していることでございましょう。すくなくとも、伊豆文や菊馬のために、かりそめのおもちゃにされるよりは——」 「なるほど、そういうわけであったのか」  甚五郎もはじめて聞く意外な話に、ほっとため息をつきながら、また思い出したように、 「しかし、お波という女は、いったいこの事件にどういう関係があるのだな。そのほうの話で、あの女が、まぼろし小町でないことはよくわかったが」 「ああ、お波でございますか。かわいそうなのは、あの白魚お波で、あれは清彦のじつの姉でございました。ただ稼業《かぎょう》が稼業なので、出世盛りの弟の名前にかかわってはと、きょうだいということを、ひたかくしにかくしていたばかりでなく、たまにあうときも、いつもお高祖頭巾《こそずきん》でおもてをつつんでいましたゆえ、世間ではこれを、清彦の情婦《いろ》かなんぞのように誤解したんでございますね。清彦は水中から姿をかくすと、いったんお波をたよって、そこに身をかくしていました。お波もはじめは、なんで弟がそんなことをするのかわかりかねていましたが、やがて弟の恐ろしい決心を知ると、なんとかして弟に罪を犯させまい。犯罪を未然に防ごうと、さてこそ、あっしのところへあのように、三枚の錦絵を送りとどけて、それとなく注意をうながすとともに、じぶんでも三小町の身辺につきまとうて、それを救おうとしていたのだそうでございます。その心情たるや、まことに哀れではございませぬか」  佐七はそこでほっと長大息をすると、 「それにしても憎いのは、清彦よりもむしろ、伊豆文と菊馬のやつで、おのが色、おのが金におごって、女をおもちゃにしようとする、その心根のほうがあっしにゃ憎くてたまりません」  だが、その伊豆文は即座に驚死し、瀬川菊馬もそれからしだいに心怪しくなって、やがてこれまた狂い死にをしたということだが、まことに因果応報というべきであろうか。     蛇性の淫  色若衆と鎌髭奴《かまひげやっこ》   ——お勝はいつもぐったり疲れはてて  暦のうえでは、とっくに梅雨はあけているのに、どういうものか、お天気がさだまらない。  毎日、びしょびしょ降りつづく雨に、神田お玉が池の佐七の家では、佐七をはじめ辰と豆六と大の男が三人、きのこのはえそうなからだを持てあましているところへ、ひょっこり訪ねてきたのが、辰の伯母《おば》のお源という女である。 「毎日、よく降ることでございます」 「おや、だれかとおもえばお源さん、ほんとによく降ることだねえ。これじゃお源さんもお困りだろうと、いまもうわさをしていたところさ。まあ、おあがんなさいよ」  表の間でなまかわきの干し物を、火ばちにかざしていたお粂《くめ》は、お源の顔をみると、まゆをひそめながらにっこり笑った。 「ほんとにこれじゃ、あごが干上がってしまいます。おてんとさまも殺生ですよ」  お源は両国の小屋がけ芝居で下座の三味線をひいているのだが、小屋がけのことだから、雨がふると興行はおやすみ。  だから、こう雨がふりつづくと、座員一同ご難である。 「おや、お源さん、なにをぐずぐずしているのさ。変なひとだねえ。辰つぁんもいるから、はやくおあがんなさいよ」 「はい、あの、じつは連れがひとりあるもんですから」 「あら、そう。どういうおひと?」 「はい、わたしどもとおなじ小屋に出ているお甲さんというひとですが、親分さんに折り入ってお願いがございますので……」 「あら、そう。それじゃ、はやくこちらへお通ししなさいよ。親分もからだを持てあましていらっしゃるところだから……ちょっと、おまえさん、お源さんがお客さんをつれておみえだよ」 「ああ、そうか、こちらへお通ししねえ」  長雨の退屈しのぎに、辰と豆六の王より飛車をかわいがる名人将棋を観戦していた佐七が会ってみると、お甲というお源とおなじ年ごろの、ちょっと渋皮のむけた女だったが、なにかしら、苦労ありげな顔色だった。 「お初にお目にかかります。おいそがしいところへ、押しかけてまいりまして……」 「あっはっは、なにがいそがしいもんか。ごらんのとおり、大の男が、朝から晩まで将棋|三昧《ざんまい》だ。よくきておくんなすった。で、あっしに御用というのは……?」 「はい、あの、それは……もし、お源さん」 「ああ、そう、それじゃわたしからお話ししましょう。親分さん、お甲さんのお願いというのは、こうなんです」  とお源さんが話すところによると、こうである。  お甲には娘がひとりある。  お勝といって、ことし十八、番茶も出ばなの年ごろだが、母ひとり子ひとりのこの親子は、それぞれ職場をもっていて、娘のお勝は山下で、茶くみ女として働いているのである。 「はてな、ちょっと伯母さん、待ってくれ」  さっきから座敷のすみで、豆六あいてに名人将棋によねんのなかった辰は、お源の話をそこまで聞くと、ふうっと顔をあげた。 「そちらのおばさんの娘さん、お勝つぁんというんだね。それで、山下の茶屋の名は?」 「はい、藤屋《ふじや》さんと申します」 「なんや、なんや、藤屋のお勝……? そんならあの子、このおばさんの娘さんかいな」  と、豆六も将棋をおっぽりだして、こちらのほうへにじりよってくる。 「おや、おまえたち、お勝つぁんという娘さんを知っているのか」 「それゃ、親分、知ってますとも。藤屋のお勝といやあ、一枚絵にでもなろうというべっぴんで、この豆六なんざ、用もないのに出向いていっちゃ、鼻のしたを長くしてるんでさ。おばさん、どうぞよろしく。へっへっへ」  辰め、妙なところであいさつしてる。  佐七はわらって、 「なるほど。そちらのおかみさんの娘さんなら、さぞべっぴんだろう。しかし、お源さん、そのお勝つぁんがどうかしましたかえ」 「はい、そのお勝つぁんが、三日まえからかえらないので、お甲さんが気をもんでいるんです」 「三日まえというと、六日の日から……?」  と、辰はなにげなさそうに口を出す。 「はい、あの、さようで……」  と、お甲はまゆをくもらせて、 「その日は、久しぶりのお天気だったので、わたしも両国の小屋へ出ましたが、日が暮れても、お勝がかえってまいりません。それで藤屋さんへききにまいりますと、夕六つ(六時)ごろ、お勝は店を出たというんですが、それからきょうまでなんのたよりもなく……」  と、お甲はそっと涙をおさえた。 「なんや、そんならお勝つぁんは、あの晩から……」  と、豆六がひざのりだしてなにかいおうとするのを、辰はそでをひいて目くばせすると、 「おばさん、しかし、おまえさんも野暮じゃねえか、お勝つぁんも年ごろだ。たまにゃ家をあけることもあらあな。すこしは大目に見てやんなせえよ」 「はい、それは……あいてが素姓のしれた男なら、わたしもこんなに心配しやアしません。しかし、なにしろ、お勝をつれだしたのが、どこのだれともわからず、それが心配でなりません」 「おお、それじゃ、お勝つぁんをつれだした男についちゃ、心当たりがあるんだね」 「はい、親分さん」  と、お甲が語るところによるとこうである。  お勝の出ている藤屋へ、ひと月ほどまえから、足しげくかよっているお客があった。  その客というのは、まだ前髪の水のたれるようにきれいなお小姓だった。あけぼの染めの振りそでに茶宇のはかま、鎌髭《かまひげ》の奴《やっこ》をひとりつれていた。  お小姓はいつもひっそりとお茶をのんでいくだけで、ほとんど口をきかなかったから、どこのだれとも、わからなかったが、奴のことばによると、名前は松若というらしかった。松若は奴を可内《べくない》とよんでいた。  藤屋にはお勝のほかに、お咲、おきんという茶くみ女がふたりいるが、三人の女は、たちまちそのお小姓に魅せられた。しかし、そのうち、お小姓の心がお勝にあるらしいとわかったので、お咲とおきんは手をひいた。  それからまもなく、お勝がちょくちょく一刻《いっとき》ほど、店をあけることがあった。どうやら、松若とあっているらしく、そんなとき、店へかえったお勝は、ぐったり疲れたような目の色をして、お咲やおきんにからかわれた。  いまから三日まえ、すなわち六日の子《ね》の刻《こく》のこと。  れいによって、お小姓が奴をつれてやってきた。そして、あいかわらずひっそりと、お茶をのんでかえっていったが、するとまもなく、お勝がそわそわと早びけしていった。  そして、それきり、きょうまで消息がないのである。 「あいてがだれとわかっていたら、これほど心配もいたしません、しかし、……素姓もしれぬお小姓だけに、わたしはなんだか心配で……」  お甲はほろりと涙を落として、なんとかお勝をさがしてはくれまいかというのである。  辰と豆六はそれをきくと、意味ありげな目くばせである。  迎え奴《やっこ》は鎌髭奴《かまひげやっこ》   ——それじゃ、可内《べくない》さん、いこうよ  いっときやんでいた雨が、またバラバラと降りはじめて、本来ならば、まだそれほどの時刻でもないのに、呉竹《くれたけ》は根岸の里のかたほとり、もう薄暗くなりかけている。  名物のお行の松が、暗い雨のむこうにけむっていた。 「辰、豆六、いったいどうしたんだ。お甲の話をきくとだしぬけにとびだし、いったいおれをどこへつれていくんだ」  ぬかるみの道をひろいながら、佐七は不平そうな口ぶりだ。 「親分、まあそういいなさんな。じつは妙なことがあるんです」 「だからさ、その妙なことというのを、聞いてるんじゃねえか。ひょっとすると、おまえたち、六日の晩、お勝のすがたを見たんじゃねえか」 「親分、お手のすじや。じつはこうなんで」  と、辰や豆六のはなしによるとこうである。  六日の晩、雨の晴れ間をみて、道灌山《どうかんやま》のほうへ用たしにいった辰と豆六は、その帰途、お行の松のほとりで雨に降られた。  あいにく雨具の用意がなかったので、ふたりはお行の松の根もとへかけこんだが、すぐふたりのあとから、これまた、雨をよけてかけこんできた女があった。  それが藤屋のお勝だった。  辰や豆六の顔をみると、お勝はちょっと、バツの悪そうなかおをしたが、さりとて、知らぬかおもできないのであいさつした。辰や豆六は、雨宿りのよい退屈しのぎとばかりいお勝をからかいにかかったが、そこへ迎えにきたのが、両のほおに油墨もくろぐろと、大きく鎌髭《かまひげ》をかいた奴《やっこ》だった。 「おお、お勝どのにはここにおいででございましたか。とちゅうで雨に降られてはいわせぬかと、松若さまがご心配ゆえ、こうしてお迎えにあがりました」 「ああ、そう、それはどうもありがとう」  辰と豆六に気がねをしながら、それでもお勝は、蛇《じゃ》の目《め》をうけるとパチッと開いた。 「それじゃ、可内《べくない》さん、いこうよ、兄さん、おさきに……」  まえかがみに蛇の目の傘《かさ》をかざして、褄《つま》かいどったお勝のすがたは、絵のようにうつくしかった。  鎌髭の可内は、じろりとふたりをしり目にかけて、すたすたとお勝のさきに立っていく。  辰と豆六は、とびに油揚げをさらわれたようなかおをして、ふたりのあとを見送っていた。 「それが六日の夕六つすぎのことなんです。だから、それいらい、お勝がかえらねえとすると……」 「どっかこの近くに、しけこんでいるにちがいおまへん」 「それで、奴はたしかに松若という名を口にしたというんだな」 「へえ、そうです。お勝のほうでも可内さんといっていましたから、山下の藤屋へくるお小姓の奴《やっこ》にちがいございません」 「奴というのは、いったいどういうやつだ」 「へえ、どういうって、そうですねえ。一文字の菅笠《すげがさ》に、蓑《みの》をきておりましたので、はっきりしたことはいえねえが、ほっぺたに油墨で大きく鎌髭をかき、まゆのふとい、目玉のギロリとした男でした。からだはたいして大きかねえが、筋金入りというからだのようでしたね」 「それで、そいつがお勝をどこへつれこんだか、そこまで突きとめなかったんだな」 「へえ、まさかお勝があれっきりかえらねえとはおもわなかったもんですから」 「だけど、親分、行く先はそう遠いとはおもえまへん。どこかこの近所に、かくれているにちがいない」 「よし、それじゃだれかに聞いてみろ」  しかし、尋ねるといっても、人家もまばらな根岸の里、それにまた降りだした雨に、人影さえもみあたらない。  三人はお行の松のそばまできたが、すると、そのときむこうから、そわそわとやってきた鳶《とび》のものふうの若者が、 「あ、もし、ちょっとお尋ねいたします」  と、こちらからかけたいことばを、逆にむこうからかけてきた。 「おまえさんがたはもしやこのへんで、十七、八のきれいなお嬢さんをお見かけじゃございませんか」 「さあてな、いっこうに……そのお嬢さんというのがどうかしたのか」  辰がたずねると、 「へえ、きょうお店《たな》のお嬢さんのお供をして、ここまできたところがにわか雨。しかたがないので、お嬢さんをそこのお行の松の下にのこして、あっしゃひと走りこのむこうまで雨具を借りにいったんですが、かえってみると、お嬢さんのすがたがみえないんで……」  みれば、なるほど、若者は傘《かさ》と合羽をかかえている。 「おまえさんはいったいどこの組だえ」 「へえ、あっしゃ下谷の天神下の裏店に住む紋太という鳶のもんですが……」 「そして、お店のお嬢さんというのは?」 「天神下の生薬屋、甲州屋のお嬢さんで、お松さんとおっしゃるかたです」 「それじゃア、おおかたそのお松さんは、おまえを待ちきれなくなって、さきへかえったのだろうよ。このへんじゃすがたを見なかったが……」 「そでしょうか。変だなあ。とてもひとり歩きのできるかたじゃねえんだが……」  紋太が不安そうに小首をかしげているところへ、通りかかったのは、このへんの百姓らしいひとりの男、菅笠と蓑から、ぼたぼたしずくを垂らしながら、ふとたちどまって、 「もし、ちょっと兄い、そのお嬢さんというのは、黄八丈の振りそでじゃなかったかえ」 「おお、そうそう、それじゃおまえさん、お会いなすったか」 「ああ、さっきここを通りかかったら、鎌髭の奴どんとつれ立って、むこうのほうへいったっけ」 「なに、鎌髭の奴と……?」 「そして、その奴というのは、いったいどういう風体だったえ」 「さあて、どういう風体って、蓑笠《みのかさ》つけていたのでよくわからねえが、おさだまりの紺看板に、木刀をぶちこんでいたようだったな」 「とっつぁん、とっつぁん」  佐七はにわかに不安が昂《こう》じてきたらしく、 「おまえさん、このへんで前髪立ちの、きれいなお小姓を見かけやアしなかったかえ」  佐七のことばをきくと、こんどはお百姓のおやじが、ぎょっとしたように目をみはって、 「おお、そういやあ、ちょっと妙なはなしがあるんです」 「妙なはなしというと……?」 「このむこうに、荒れはてた寮が一軒あるんです。いぜんは、日本橋へんの大店の寮だったが、だいぶんまえに、そこで首くくりがあったとかで、いまじゃア住むものもなく、荒れるにまかされていて、この近所じゃ化け物屋敷とよんでるんだが、そのお屋敷に、ちかごろちょくちょく……」 「ちかごろちょくちょく……?」 「水の垂れるような、きれいなお小姓のすがたがみえるというんで、あれゃただの人間じゃあるめえ。きっと魔性のものにちがいないと、よるとさわるとそのうわさなんです」  佐七はまた、辰と豆六と顔見合わせたが、 「よし、それじゃとっつぁん、おまえすまねえが、その化け物屋敷まで案内してくれ。おい、兄い、おまえもいっしょにくるがいい」  雨はまたひとしきり強くなって、あたりはいよいよ暗くなってくる。  もう日の暮れるのもまぢかであった。  化け物屋敷根岸の寮   ——前髪の若衆のそばには鎌髭奴が  百姓のおやじは茂作といった。  その茂作の案内でやってきたのは、いかにも化け物屋敷の名にふさわしい荒れはてた建物である。とちゅうで出会った野次馬が、五、六人ぞろぞろついてきた。 「親分、親分、前髪のお小姓というのが、どうかしたんですか。あっしゃお嬢さんをおさがししなきゃならねえんですが……」  鳶の紋太は、不安そうに顔をくもらせている。 「まあ、いい。おいらといっしょにおいでなせえ。とっつぁん、それじゃこのお屋敷のなかに、前髪のお小姓があらわれるというんだな」 「へえ、そうなんで。あっしゃげんにこの目で見たんです」  と、野次馬のなかから出てきたのは、植木屋の職人で太平という。そのころ、この根岸のあたりには、植木屋が多かったものである。 「兄い、それゃいつのこった」 「あれゃたしか六日の晩のことでした。五つ(八時)ごろここをとおると、かきねのなかで、ものの気配がするんです。そこで、かきねのすきからのぞいてみると、池のそばに、前髪の若衆が立っていたんです」 「そんな夜更けに、若衆のすがたがみえたのか」 「へえ、それが、ちょうど雨があがって月が出ていたので、はっきりすがたがみえたんです」 「ふむ、ふむ。それで……」 「若衆のそばには、鎌髭の奴がひざまずいているんです」 「鎌髭の奴がなあ。それからどうした」 「若衆はじっと池のなかをのぞいていましたが、ひょいとこちらを振りむくと、おや、あんなところから、だれかのぞいてるよと、そういって、こちらを指さして、ほ、ほ、ほと笑うんです。いや、もうその気味の悪いことといったら、あたしゃゾーッとして、すっとんでうちへかえったんです」  佐七はまた、辰や豆六と顔見合わせて、 「よし、とにかくなかへ入ってみよう」  門といってもかたちばかり。なかへ踏みこむと、雑草がひざも埋めんばかりにしげっている。  こわれかかった枝折り戸をみつけて、庭へまわると、太平が若衆の姿をみつけたというかなり大きな池がある。  もうほとんど、あやめも見わけにくくなった暗がりに、池の水がどろんとにごって、雨をよぶかえるの声がしきりである。 「あ、親分、親分!」  とつぜん、辰が佐七のそでをひいた。 「どうした、辰」 「あんなところから明かりが……」  佐七がぎょっと振りかえると、離れとおぼしい座敷の雨戸がすこしはずれていて、そこからかすかな明かりがもれている。  佐七は雑草をかきわけて、雨戸のすきからなかをのぞいた。雨戸のなかには障子もふすまもなく、がらんとした座敷のなかに、ひっそりと蚊帳《かや》がつってある。蚊帳のそとでは行灯《あんどん》の灯が、ジジー、ジジーと油をすう音…。  蚊帳のなかに、だれかねているらしい。  佐七が手をかけると、くされかかった雨戸はすぐ外れた。なかへ踏みこむと、空き屋敷特有のかび臭いにおいが鼻をつく。  佐七と辰と豆六は、蚊帳のなかをのぞいたが、ひとめそこをみると、おもわずぎょっと息をのみこんだ。  蚊帳のなかには布団がしいてあるが、掛け布団をあしもとへけちらした夜具のうえに、膚もあらわに身をよこたえているのは、一糸まとわぬはだかの娘だ。  ほのぐらい座敷のなかに、その娘は全身の曲線の、すみからすみまであらわにみせて、ひっそりとそこに、よこたわっているのである。  胸に盛りあがった、ゆたかなふたつの隆起から、少しくびれた腰の線、かわいいへそのくぼみから、つややかな両の腿《もも》へわれておちていく深淵《しんえん》の曲線がなやましい。  娘はそういう曲線を、惜し気もなくさらしものにして、息をしているのかいないのか、ひっそりと、そこに身をよこたえているのである。年は十七、八というところだろう。  暗い色の敷き布団をバックにして、ほのじろく浮かんだそのなやましい裸身には、久米の仙人《せんにん》ならずとも、神通力をうしなうだろう。  佐七はそっと蚊帳をめくってなかへはいると、左右にひらかれた腰巻きで、下半身をかくしてやった。そのまえにちらと見ただけだが、ついいましがたまで、男に抱かれていたことは、たしかなようである。  辰と豆六もあとから入ってきて、 「お、親分、死んでるんですか」  佐七は無言のまま、そっと娘の額に手をおしあててみたが、そのとたん、娘の口からふかいため息がもれ、きゅうにしなしな下半身をくねらしはじめた。  それは女が男によってあたえられた、この世で無上の喜びに浸っているとき、陶酔と恍惚《こうこつ》のあいだにみせる、あのかわいいしぐさである。  辰と豆六はおもわずゴクリと、なまつばをのみこんだ。 「いいや、死んじゃいねえようだ。眠りこけているんだが、しかし、この眠りかたはすこしおかしい」  佐七はそこで、辰と豆六をふりかえり、 「辰、豆六、これは藤屋のお勝じゃねえか」 「いいえ、お勝じゃありません。ひょっとすると、これゃ甲州屋の娘のお松じゃありませんか。おい、豆六、さっきの鳶《とび》のもんを呼んでやれ」 「おっとしょ。ちょっと兄さん、兄さん、鳶の兄さん、ちょっとこっちへ入ってきておくれやすな」  豆六によばれて、鳶の紋太がおずおずと蚊帳のなかへはいってきたが、ひとめ娘の顔を見るなり、のけぞるばかりにおどろいて、 「あっ、こ、こ、これゃお松さま、お松さまがどうしてここに……」  あさましいお松のからだに、紋太はあわてて布団をかけてやる。 「辰、豆六、だれかほかにかくれてやあしねえか、家のなかを調べてみろ」 「おっと、がてんだ」  辰と豆六は、蚊帳のなかから抜けだしたが、 「おお、兄い、お嬢さんの着物がここにある。着せてやんねえ」  と、蚊帳のすそから投げこんだのは、黄八丈のきものと帯である。 「へえ、へえ、どうもありがとうございます」  紋太はすっかり面食らったかっこうで、娘にきものを着せてやる。こんこんと眠りこけたお松は、まるで赤ん坊のように、紋太のなすがままにまかせている。 「お松さま、お松さま、しっかりしてください。親分、これゃいったいどうしたんです。お松さまはどうして正体がないんです」 「どうもおかしい。これゃなにか、薬をのまされてるにちがいねえが……ときに、兄い、おまえはきょう、このお嬢さんのお供をして、どこへいったんだえ」 「へえ、それは……このむこうに甲州屋さんの寮がございまして、そこにいま、お松さまのおばあさまにあたるご隠居さまが出養生をしていらっしゃいますので、ときどきお見舞いにおいでになりますんで。きょうもそこへおいでになったそのかえりがけなんです」 「おまえ、このお嬢さんと前髪の若衆と、なにかうわさをききゃしねえか」 「とんでもない。お嬢さんは箱入り娘、むやみに若い男と……」  紋太がむっとしたように答えたときだ。母屋のほうから、けたたましい辰の叫び声。 「わっ、親分、たいへんだ。たいへんだ。はやくきておくんなさい」 「あっ、なにかあったらしい」  佐七はふところから火なわを出すと、手早くそれに行灯の火をうつし、 「兄い、おまえはここにいてくれ。おれはむこうへいってみる。辰、豆六、どこだ、どこだ」 「親分、こっちゃや、こっちゃや、はよきておくれやす」  雨戸をしめきった家のなかは、もうすっかり暗くなっている。  そのなかを、火なわをくるくるまわしながら、辰や豆六の声をたよりに、やってきたのは母屋の十畳。そこに辰と豆六が、これまた火なわをまわしながら、石のように立ちすくんでいる。 「辰、豆六、どうした。なにか見つかったか」 「お、お、親分、あ、あれを……」  辰も豆六も歯の根があわない。ガタガタふるえながら、辰の指さすところをみて、佐七もゾーッと立ちすくんだ。  真っ暗な天井から、一糸まとわぬ女のからだが、まっさかさまにぶらさがっている。がっくりとけた黒髪が、からすへびのように、古畳をなでているのである。 「お、親分、藤屋のお勝で……」  お勝のからだには、どこにも傷はなかった。彼女がさんざん男にもてあそばれたらしいことはあきらかだった。まるで、全身の精気をぬきとられたかのように、白い蝋《ろう》のような膚をして、死んでいるのである。  妖説《ようせつ》白へび若衆   ——腰掛けがいつもぐっしょりぬれて  藤屋のお勝のむざんな最期と、甲州屋のお松の薄気味わるい災難は、江戸のおなごどもをふるえあがらせるにじゅうぶんだった。  お松は一刻《いっとき》ほどたって目ざめたが、目がさめてから、彼女がおどおどしながら語るところによるとこうである。  お行の松のしたで雨をよけながら、紋太のかえりを待っていたお松は、そこへかけこんできた蓑笠《みのかさ》すがたの奴《やっこ》に声をかけられた。 「甲州屋のお松さまでございますね」  見知らぬ男に声をかけられ、お松もうすっ気味悪くおもったが、それでも答えぬわけにはいかないので、 「はい」  と、ひくい声で答えた。すると、あいてが、 「紋太さんのかわりに、お迎えにあがりました。さあ、こうおいでなされませ」  と、傘をひらいて迎えたので、お松はちょっとおどろいた。 「あの、紋太がどうかしましたか」 「いえ、べつにご心配なことはございませんが、あまりいそいだので石につまづき、生づめをはがしたのでございます。いま手当をしておりますが、あまりながくお嬢さまをお待たせしてはすまないと申しますので、わたくしめがかわりにお迎えに参上しました。さあ、こうおいでなされませ」  奴にうながされると、お松にもいなむべき筋はなかった。  甲州屋のお松といい、紋太といい、あいてはじぶんたちの名まえを知っている。  紋太はさっき、このむこうに知り合いのうちがあるから、そこへいって雨具をかりてくるといって、駆けだしたのである。だから、きっと、その家からの迎えであろうと、お松はなんなくあいての誘いにのってしまった。しかし、さすがに化け物屋敷然たるあの荒れ屋敷に案内されたときには、お松もちょっと身がすくんだ。 「あの、紋太はこのお屋敷にいるのかえ」  と、門のまえに立って、ためらいがちに尋ねると、 「へえ、さようで。なにも怖いことはございません。さあ、こうおいでなされませ」  奴は手をとらんばかりにして、さきへ立ってなかへはいっていく。また、ひとしきり雨が強くなってきたので、お松はそれをふりきって逃げるわけにもいかなかった。  奴は庭の枝折り戸から、お松をあのはなれ座敷へ案内した。 「少々ここでお待ちくださいまし。いますぐ紋太さんを呼んできますから」  お松はいちまいだけ雨戸をくったはなれの縁側に腰をおろして、荒れはてた庭のおもてをながめていた。雨はいよいよつよくなり、あたりはだんだんたそがれてくる。  お松はなんともいえぬ心細さに、泣き出しそうになっていたが、きゅうに、ぎょっと目をみはった。  いつのまにやってきたのか、池のほとりに人影が立っている。  その人影はスルスルと、雨のなかを傘《かさ》もささずに、お松のそばへやってきた。  前髪の、それこそ水の垂れるような若衆だった。 「お松どの」  と、若衆はにっこり笑って、 「ようきてくださいましたなあ。さあ、こっちへおいでなされませ」  と、お松の手をとった若衆の手は、氷のようにつめたかった。  だが、そのことより、お松にとって、もっと気味のわるいことがあった、若衆は雨のなかを、傘もささずにやってきたのに、どこもぬれていないのだ。 「あれ、あなたはだれです。わたしをどうしようというのです」  お松はあいての手をふりほどこうとしたが、すがたににあわぬ力の強さで、しっかりと握りしめた指先には、鋼鉄のような力がこもっている。 「ほ、ほ、ほ、わたしがだれだか、いまにわかります。お松どの、わたしのからだは冷えている。氷のように冷えている。そなたのあたたかい膚で、わたしのからだをあたためてくだされ。それ、むこうへいって……」  お松はそのときはじめて、座敷のなかに蚊帳《かや》がつってあるのに気がついた。 「あれ、はなして、はなして、だれかきて……」 「お松どの、お松どの、そんな声を立てるじゃない。慈悲じゃ、情けじゃ。そなたの膚のぬくもりで、わたしの膚をあたためてくだされ」  お松はもがいた。抵抗した。  しかし、しっかりお松の肩にからみついた若衆の両腕には、とりもちのような粘りがあり、お松はいつしかずるずると、座敷の中にひきずりこまれて……。  あまりの恐ろしさ、気味のわるさに、お松はとうとう、気をうしなってしまったのである。  お松のこの告白ほど、世間をおどろかせたものはなかった。  あるひとは、その若衆は蛇性《じゃせい》であろうといった。不忍池《しのばずのいけ》にすむ白へびが。まず藤屋のお勝に魅入ってこれをころし、ついで、お松を魅込んだが、さいわい、お松は佐七の一行が駆けつけるのがはやかったので、危ないところをのがれたのであろうという評判だった。  そういえば……と、藤屋のお咲やおきんも、そのうわさに尾ひれをつけくわえた。  あの若衆のそばにいると、いつもゾーッとするような薄らさむさを感じたといい、また、若衆のすわったあとの腰掛けは、いつもぐっしょりぬれていたなどといいふらした。  さてこそ、不忍池にすむ白へびが、わかい娘に魅入るのだと、その当時、よるとさわると評判だったが、佐七はしかし、なんとなくふにおちぬものを感じていた。 「辰、豆六、どうだ、甲州屋の調べはついたか」 「へえ、だいたい調べはつきましたが、べつに変わったこともねえようで」 「お松という娘はどうなんだ。なにかわるい評判はねえか」 「さあ、べつにわるい評判もおまへんが、ただ、この春、きまりかけていた縁談がこわれたちゅう話があります」 「きまりかけていた縁談がこわれた……? それはいったいどういうんだ」 「へえ、これは甲州屋の近所できいてきたことなんですが、だいたいこういう話で……」  と、ふたりの語るところによるとこうだ。  甲州屋というのは、天神下で数代つづいた生薬屋で、かいわいでも有名なものもちだが、どういうものか代々男の子がうまれず、養子とりだった。  お松の母のお万というのもひとり娘で、吉兵衛という養子を迎え、そのあいだにできたのがお松である。お松もひとり娘で、当然、養子とりの身分だが、一昨年吉兵衛がなくなったので、とくに縁談をいそいでいた。  その縁談は、この春ほとんどまとまりかけた。  あいては黒紋町の生薬屋、山吹屋の次男で亀次郎という。  亀次郎というのは、それこそ、絵にかいたような美男だから、お松の心もおおいに動いた。お松もまた天神小町といわれるほどの器量よしだから、亀次郎のほうにもいなやはなかった。  それに、山吹屋と甲州屋、身代もよくつり合っているので、この縁談、どこからみてもかっこうだと思われていたのに、どういうわけか、途中でこわれてしまったのである。 「いったい、どういうわけでこわれたんだ」 「さあ、それがよくわからねえんですが、なんでもその亀次郎という男、それこそ、虫も殺さぬようなかおをしているが、そうとうの道楽もんで、いろいろ女があったらしいんですね」 「なんでも湯島の境内に出てる女役者ともわけがあって、そいつとどこかへしけこんでるところを、お松に見つけられたらしいちゅう話や。それで、お松のほうから、いやけがさしたんやないかちゅう話だす」  佐七はだまって考えていたが、 「辰、豆六、ひとつ、その亀次郎というのを洗ってみろ」 「えっ、親分、亀次郎がなにか……?」 「なんでもいいから、洗うだけ洗ってみろ。白へびが女に魅入るなんて、そんなバカなことがあるはずがねえ。松若という若衆が何者にしろ、そいつは人間にちがいねえんだ。畜生ッ、ひとをこけにしやがって……」  佐七は憤然たる面持ちだった。  破鏡お松亀次郎   ——亀次郎が破れた恋の意趣晴らしに 「おい、お咲、おきん、おまえたちも、いいかげんな与太をとばすじゃねえか。若衆の座っていたあとの腰掛けがぐっしょりぬれていたなんで、それゃほんとのことかえ」  山下の水茶屋、藤屋である。  めずらしく辰も豆六もつれずに、ぶらりとやってきた佐七に、のっけからこうつっこまれて、ふたりとも一言もなくかぶとをぬいだ。 「あら、すみません、親分。でも、あれはあたしたちがいい出したことじゃアないんです」 「じゃ、だれがいいだしたんだ」 「いいえね、あのうわさをきいていらしたお客さんが、腰掛けがぬれていたろう、なんておっしゃるもんですから、あたしども、ただにやにやとわらっていたんです。そしたら、いつのまにやら、それがほんとうになってしまって、あたしどもも困っているんです」 「あっはっは、うわさというものは、たいていそんなもんだな」  佐七は笑ってすませるつもりだったが、そのとき、おきんが身をのりだして、 「でもねえ、親分、あのお小姓のそばにいると、なんだかゾーッとするような、薄気味わるさをかんじたというのは、ほんとうなんです。ねえ、お咲ちゃん」 「ええ、そう、それはほんとうのことなんです。それというのが、お勝つぁんからいろいろ話をきいてたからかもしれないけれど……」 「お勝がどんな話をしたんだえ」  佐七はそっと目を光らせる。 「どんな話って、まあ、いろいろとねえ」  おきんとお咲は顔見合わせて、ぽっとほおをあからめる。佐七はふたりの顔色をみて、 「あっはっは、おまえたち、お勝からのろけを聞かされたな。どんなのろけだい」 「それがねえ、親分、変なはなしですけど、あの若衆、顔ににあわずとても強いんですって」 「強いって、なにがさ」 「まあ、いやな親分、そんなこと……ね、おわかりでしょう。だから、お勝つぁん、いつかしみじみいってましたが、こんなことつづけていたら、あたしいまに、死んでしまうかもしれないって。それでいて、あわずにいられなかったんだから、やっぱり魅込まれた、というんじゃないでしょうか」 「お勝つぁんのいうのにね。あのひとと、ただ差しむかいで話をしているだけでも、ボーっと夢見心地になってくる。それはもう、なんともいえぬほどよい心地で、この世の極楽というような気持ちになるんですって」 「そうそう、そんなこといってたわねえ。だから、三日もあわずにいると、お勝つぁん、なんだかいらいら、そわそわして、ほんとうに変だったわねえ。だから、親分、腰掛けがぬれてたってのはうそですけど、やっぱりあのひと、ふつうの人間じゃないとおもうわ」  お咲とおきんのその話は、つよく佐七の心に彫りつけられた。 「ところで、おまえたち、こんどその若衆にあったらわかるだろうな」 「ええ、それゃわかりますわ。あんなきれいなひとですもの。でも、親分、あたし二度とあいたくないわ。ねえ、おきんちゃん」  お咲とおきんは顔見合わせて、ぞくりと肩をふるわせる。  その晩、辰と豆六がお玉が池へかえってきて、 「親分、亀次郎のことは、だいたい調べてきましたがねえ、ちかごろは神妙にしているようです」 「亀次郎のやつ、よっぽどお松にほれてたにちがいおまへんな。甲州屋から縁談をことわられると、その当座、気抜けしたみたいになって、ぶらぶらしてたそうです」 「それで、ちかごろは、おとなしくしているんだな」 「へえ、それというのが、ちかく婚礼するんだそうで。あいてはなんでも、通り三丁目にある大きな袋物屋、紅勘の娘でお房《ふさ》というんだそうです」 「こんども養子にいくのか」 「いえ、こんどは養子やおまへん。嫁にもろて、山吹屋ののれんをわけるとかちゅう話だす」  佐七は黙ってかんがえていたが、 「ときに、その亀次郎だがな。そいつ藤屋のお勝にあつくなってた、というような話はきかねえか」 「いいえ、そんな話はききませんが、藤屋でそんな話があったんですか」 「いや、そういうわけじゃねえが……」 「親分、そんなら親分のかんがえでは、あの若衆は亀次郎やいうんだすか」 「どうだ。前髪の若衆に化けられそうな男か」  辰と豆六は顔見合わせて、 「そういやあ……それゃもう、水の垂れそうなよい男ですが、しかし、あの男なら、甲州屋のお松が知ってるはずじゃありませんか」  佐七はわらって答えない。 「親分、そんなら亀次郎のやつ、恋のかなわぬ意趣晴らしに、お松を化け物屋敷へひっぱりこんで……それをお松がかばってるというんですか」  佐七は、それにもわらって答えず、 「とにかく、亀次郎のやつを見張っていてくれ」  と、なにか考えるところがあるらしかったが、はたせるかな、それから三日のちのことである。  亀次郎の身辺をめぐって、またしても、異様な事件がもちあがった。  蚊帳《かや》の中裸地獄   ——亀次郎、お房は死んでいるのかえ 「可内《べくない》、可内」  どこともしれぬ、異様に荒れはてた座敷のなか。ひっそりとつられた蚊帳《かや》のなかから、ひくい声でそう呼んだのは、松若と名のるあの気味のわるい小姓である。  お小姓のひざには、女がひとり抱かれている。  女のとしは十七、八か、色白のかわいい顔立ちだが、ぱっちりと目をひらいたまま、人形のように、若衆の胸に身をもたせて、あいてのなすがままに身をまかせている。  気をうしなっているのであろうか。  いや、気をうしなっているともみえない。眠っているのであろうか。いや、目をあいたまま眠るはずがない。知覚だけは生きているが、運動神経がまひしている……。  いってみれば、娘はそんな状態にあるらしい。 「可内、可内」  松若はまたひくい声でよんでみた。しかし、どこからも返事はなく、蚊帳のそとで行灯が、ジジーと音を立てるばかり。 「ふ、ふ、ふ、可内めは気をきかせて、どこかへいってしまったようだ。どれ、それじゃそろそろ、膚をあたためてもらおうか」  お小姓は、娘をひざにだいたまま、帯をときにかかる。  やがて行灯の灯がふき消されて、あとはうるしのようなやみのなかに、抱きあった男と女のリズムカルな動きと息遣いが、しばらく神妙につづいていたが、やがて、その息遣いとうごめきが、しだいにものくるわしくなり、凶暴さがくわわってきたかと思うと、はては絶えいるような女の絶叫と、けだもののような男の咆哮《ほうこう》と化し、ふたりをつつむ蚊帳全体が、あらしにあったようにゆれはためいた。  しかも、こういう女の絶叫と男の咆哮と、蚊帳のゆれはためきが、くりかえし、くりかえし、明け方ちかくまでつづいていた。  さて、翌日のことである。朝早くからそとへ出ていた辰と豆六が、昼過ぎになって、奴凧《やっこだこ》のように大手をひろげて舞いもどってきた。 「親分、たいへんだ、たいへんだ。紅勘の娘のお房《ふさ》が、ゆうべからゆくえがわからねえそうです」  大声でさけぶ辰の声に、昼飯の膳《ぜん》にむかっていた佐七は、ポロリと箸をとりおとした。 「なに、紅勘の娘のお房が……か」 「へえ、さいだす。それで、紅勘でも、山吹屋でも大騒ぎだす」 「亀次郎はどうしてる?」 「へえ、なんだかあおい顔して、山吹屋を出たり入ったりしていましたが……」 「よし。辰、豆六、こい」  お玉が池をとびだした佐七が、やってきたのは黒門町。山吹屋へよるかと思ったら、そこはそのまま通りすぎたから、 「おや、親分、いったいどこへいくんです。山吹屋へいくんじゃなかったんですか」 「なんでもいいからついてこい」  と、足いそがせてやってきたのは根岸の里。 「あっ、親分、そんならお房もあの化け物屋敷へつれこまれたとおっしゃるんで」 「ふむ、はっきりしたことはいえねえが、そんなことじゃないかと思うんだ。おや」  化け物屋敷のちかくまできたとき、佐七ははっと足をとめた。だれやら、いまその門のなかへ、とびこむすがたがみえたからである。 「あっ、親分、あれゃ山吹屋の亀次郎ですぜ」 「なに、あれが亀次郎だと?」  三人はギックリとしたように顔見合わせる。 「親分、あいつがここへやってくるとすると……」  三人の胸にはいちように、異様な思いがこみあげてくる。 「辰、豆六、とにかく気をつけろ。亀次郎にさとられるな」  三人は門のまえにちかよると、しばらくなかの気配をうかがっていたが、やがてそっと門のなかにしのびこむ。亀次郎は枝折り戸のなかへ入っていったとみえ、雑草が踏みしだかれている。  三人もそっと、庭のほうへまわっていった。 「親分、親分、また、あの離れだっせ」  豆六がそっとささやいた。  みればなるほど、離れの雨戸があいていて、そのまえに草履がぬぎすててある。  三人は足音をしのばせて、雨戸の外へ忍んでいったが、だしぬけに、ぎょっとしたように顔見合わせた。  雨戸のなかからきれぎれに、聞こえてくるのはすすり泣きの声である。  泣いているのは亀次郎らしい。亀次郎はすすり泣きをしながら、なにやらくどくどかき口説いている。しかし、あいての声はきこえず、さやさやと衣ずれの音がするばかり。  三人はしばらく顔を見合わせていたが、やがて佐七が声をかけた。 「おい、亀次郎、お房は死んでいるのかえ」  あっ、と、叫んで立ちあがる亀次郎のけはいに、辰と豆六が、 「亀次郎、御用だ!」  と、雨戸のなかへとびこんだ。  みれば、そこには、このあいだとおなじように蚊帳《かや》がつってあり、蚊帳のなかで、若い男がまごまごしている。そして、その若者の足元には、あられもないすがたをしたわかい娘が、ぐったりよこになっている。  娘はこのあいだのお松とおなじで、膚もあらわの、素っ裸にされていた。だれかに犯されたらしことも、このまえと同様だった。  亀次郎はその娘に、きものを着せていたらしく、そのために、逃げ出すこともできなかったのだ。 「亀次郎、そこにいるのはお房だな。お房は死んでいるのか」 「い、い、いいえ、お房ちゃんは、ただ眠っているだけで……」  亀次郎はがっくりそこにひざをつくと、あわてて、お房のうえに布団をかけてやる。 「おい、亀次郎、おまえどうしてここへきたんだ。お房がここにいることを、どうしておまえは知っているんだ」 「は、は、はい……」  亀次郎は、そこへべったり両手をついたきりで、佐七がなんとたずねても、唖《おし》のように口をつぐんで答えなかった。  箱入り娘と仁王様   ——おい、豆六、お松に鏡を見せてやれ 「どうしたんだねえ、おまえさん、きょうはいやに元気がないじゃないか」 「すまねえ、すまねえ、おらアどういうものか、からだがかったるくてたまらねえ。それに、なんだか眠くってさあ」 「なんだえねえ、意気地がない。いったい、あたしをどうしてくれるのさあ」  と、女は下から男の顔をにらんだが、 「そういえば、あたしもきょうはおかしいよ。いつもほど興がのらないもの」 「疲れてるんだよ、ふたりとも。こないだじゅうのことがあるから」 「そうかもしれない」 「ひとつここらで、ひと眠りしようじゃねえか。そしたらまた、ふたりとも元気が出るだろうぜ」 「ほんとに、そのほうがいいかもしれない」  と女もやっと納得して、男の首から腕をはなした。  男が鳶《とび》のものの紋太だといえば、女が甲州屋の箱入り娘、お松であることはいうまでもあるまい。  裸になった紋太は、よいからだをしている。どの筋肉も仁王様のようにもりもりとたかく盛りあがって、不死身の精力を誇示しているかのようである。しかし、そういえば、きょうはいささかその筋肉にたるみがみえる。 「しかし、へんだなあ。いかに、このあいだじゅうのことがあるとはいえ、あれしきのことで、へこたれるようなおれじゃねえが……さっき、飲んだ酒がいけなかったかな」 「そんなにたくさんお飲みだったのかい」 「いいや、ほんのちょっぴり、おまえを待つまの手持ちぶさたで、それでもちょうしで、三本はのんだかな」 「あたしゃおまさんのおあいてで、おちょうしで半分のむかのまずだったんだが……」  まくらもとのお盆のうえには、ちょうしが三本と、さら小ばちが二、三ならんでいる。 「まあ、いいや、やっぱりおたがいに疲れているんだ。さあ、ぐっすりひと眠りやらかそうぜ」  それは、山吹屋の次男亀次郎がお玉が池の人形佐七にふんづかまったといううわさが、江戸っ子の耳をおどろかせてから、ちょうど五日目の晩のこと。  不忍池のほとりにある怪しげな出会い茶屋の奥座敷で、寝床をともにしているお松と紋太は、たがいに、きょうの不調をいぶかりながら、それからまもなく、ぐっすり眠りこけてしまったが、やがて、小半刻《こはんとき》(小一時間)ほどたって、ひとあしさきに目をさましたお松は、なにげなく、そばにねている男の顔に目をやったが、そのとたん、ぎょっとしたように息をのんだ。  なんと、紋太は油墨もくろぐろと鎌髭《かまひげ》をかき、まゆをふとく染めている。  お松はあっと息をのみ、あわててあたりを見まわすと、 「紋太さん。紋太さん、起きなさいよ。おまえ、どうしてそんなことをしたのだえ。そんなところを、もし、ひとに見つかると……これ、紋太さん、起きないかえ」  しかし、紋太はどうしたのか、いくらお松がゆすぶっても、目をさますけはいはない。額にいっぱい汗をうかべて、雷のようないびきをかいている。  お松はふっと不安そうなまゆをひそめると、まくらのしたからもみのきれを取りだした。そのきれに飲みのこした酒をしませると、紋太のほおひげを消しにかかったが、そのときだ。びょうぶの外からふとい男の声がきこえた。 「おい、お松、もうそんなことをしてもむだだぜ」 「えっ!」  のけぞるばかりにおどろいたお松は、もみのきれを投げすてると、あわてて、腰巻きのひもをしめなおした。それからまくらの下から匕首《あいくち》をとり出し、さっと鞘《さや》を払うと、逆手に握って、 「だれだえ、そこにいるのは……?」 「お玉が池の佐七というもんだ。さすがは薬のききめだ。お松、よく寝たなあ」  そういいながら、びょうぶをたぐって、お松のうえからぬっと顔を出したのは、人形佐七、そのうしろには辰と豆六がひかえている。  お松はさっと、くちびるまで真っ青になった。それでも、あわてて匕首をうしろにかくすと、 「あれ、親分さん、どうしてこんなところへ……」 「あっはっは、おれもこんな野暮なまねはしたかあなかったんだが、これよりほかに手段がなかったんだ。おい、おきん、お咲、ちょっときてくれ」  佐七の声に、障子をひらいてはいってきたのは、藤屋の茶くみ女のおきんとお咲、腰巻きひとつで寝床のうえに座っているお松の顔をひとめみるなり、 「あれ、親分さん」  と、真っ青になって、そばにいる辰と豆六にしがみついた。 「おきん、お咲、よく見てくれ。松若と名のった若衆は、この女にちがいあるまいね」 「は、はい、親分……」 「ついでに、そこにねている男の顔もみてくれ。可内《べくない》というのはそいつじゃねえか」  おきんとお咲はおそるおそる、ねむりこけている紋太の顔をのぞきこむと、 「は、はい、親分、たしかにこのひとに違いございませんが、それじゃ松若というのは、女だったのでございますか」  おきんとお咲も歯の根があわない。  ガタガタふるえながら、恐ろしそうにお松の顔を見すえている。  だしぬけに、お松がかんだかい声を立ててわらった。 「ほ、ほ、ほ、親分さん、これはなんのいたずらでございます。紋太の顔に鎌髭《かまひげ》かいて、可内《べくない》とやら、松若とやら、いったい、なんのことでございましょう」  お松はきっちり座りなおして、すずしい声で、切り口上である。 「ふうむ。さすがにたいした度胸だな。しかし、お松、もういけねえ。おい、豆六、お松に鏡を見せてやれ」 「へえ」  と、豆六は手鏡を出して、 「おい、お松、おまえちょと鏡をみや。そしたら、そんなしらもきれへんやろ」  お松はちょっとふしぎそうにまゆをひそめたが、それでも、豆六の手から鏡をとると、なにげなくそれをのぞきこんだが、あとになっておきんとお咲が、そのときのようすを、客に話したことばによると、 「ほんとにそのとき、わたしゃ、あのひとの口が耳まで裂けるんじゃないかと思ったんです」  お松は鏡のなかに、はっきりと松若の顔を見た。いつのまにやら、お松の髪は、前髪立ちの若衆|髷《まげ》、松若のとおりに、結いなおされているのである。 「あっはっは、お松、おれもこんなひきょうなまねはしたくなかったが、おまえにたのんでそういう髪を結ってくれといったところで、きいてくれるはずはねえから、おまえがいつもつかう麻薬を使って、寝ているあいだに、そういう細工をやってのけたのだ。いや、おきん、お咲、ご苦労だった」  お松はキリキリ奥歯をかんだ。それから、針のような鋭い目で佐七をにらんでいたが、やがて片ほおにえくぼをくかべると、 「どうやら、わたしの負けらしいわねえ。紋太さん、紋太さん、目をさましなさいよ」  そういいながら、お松はうしろに手をまわすと、いきなりがばと、素っ裸のままで寝ている紋太のうえにつっぷしたが、そのとたん、 「う、う、ううう……」  とうめいて、ばたばたもがく紋太のようすに、 「しまった! 辰、豆六、お松を紋太からひきはなせ」  だが、ふたりがあわててお松を抱え起こしたときはおそかった。  かくしもった匕首《あいくち》で、お松は紋太の胸をえぐると、みずから舌をかみきって……それは、なんともいいようのないほど、凄惨《せいさん》なふたりの最期だった。  お松と紋太が死んでから、亀次郎ははじめて、ほんとうのことを打ちあけた。 「お松どのとの縁談がこわれたのは、わたしがあのひとと紋太との仲を知ったからです」 「それをおまえの不行跡のように、取りつくろったんだな」 「はい、それをいいたてると、あのひとの傷になりますから……」 「それで、お松はおまえをあきらめるといったのか」 「はい、わたしのことはあきらめるが、そのかわり、じぶんの不行跡は内緒にしてくれ。もし、それをしゃべったら、ただではおかぬと、わたしをにらんだその目のすごさ。あのひとはへびのような女でした」  へびのようなお松は、あきらめるとはいったものの、亀次郎をあきらめることができなかった。そこで、亀次郎の嫁がきまると、かたっぱしから傷物にするつもりで、魔性の若衆になりすまし、それに真実の裏づけをするために、まず藤屋のお勝を槍玉《やりだま》にあげたのだ。  藤屋のお勝は、べつに亀次郎と関係はなかった。ただ、魔性の若衆の存在を実在化するために、槍玉にあがったにすぎなかった。  お松は麻薬を使ったらしく、それによってお勝をまず夢幻境におとしいれて、そこでやみにまぎれて、紋太といれかわっていたのではないか。紋太はもちまえの仁王のようなからだにものをいわせて、お勝を責めて、責めて、責めぬいたのだろう。  お松は亀次郎に未練をもちながら、いっぽう紋太の仁王様のようにかたくもりあがった筋肉と、倦《う》むことをしらぬその精力をわすれることができず、それを亀次郎への復讐に利用しようとしたのであろう。  そして、紋太はお松の命とあらば、どんなことでも唯々諾々だったのだろう。  それが佐七の推理である。  お勝が三日も若衆にあわぬと、いらいら、そわそわしたというのは、男の膚恋しさも恋しさだが、麻薬の禁断症状におちいっていたのではなかろうか。  それにしても、いかに疑いをほかにそらせるためとはいえ、一糸まとわぬ、しかも、さんざん男とふざけたあとのからだの、すみからすみまでさらしものにして、恬《てん》として恥じなかったとは、さしずめお松は、いまのことばでいう変質者だったのだろう。  紅勘の娘お房も、お松と紋太の毒牙《どくが》にかかっていたが、しかし、心のやさしい亀次郎は、それを水にながして、まもなく祝言したという。 [#地付き](完) ◆人形佐七捕物帳◆(巻九) 横溝正史作 二〇〇五年六月十日